2020年11月1日 主よ、来てください 

パウロが、自分の手であいさつを書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。 Ⅰコリント16:21、22 コリント人への手紙第一講解説教№69 Ⅰコリント16章19-24節 「主よ、来てください」第一の手紙の最後にふさわしいことばを、パウロは持ってきました。パウロの身体上の問題であろうと言われていますが、手紙は代筆です。しかし最後の大事な部分は「自分の手であいさつを書きます」と。大事な言葉は三つで、「のろわれよ:アナテマ」「マラナ:主」「タ:来る」です。主を愛さない者はのろわれよ、と厳しいことばですが、救われている者は必ず主を愛するというのが前提にあります。救われた者はキリストとの交わりに入れられていて(1:8)、主を愛することが交わりに入れられている証拠なのです。自分の罪と、その弱さゆえに、「自分は主を愛しているだろうか」と悩むことも多々あるでしょう。しかしそれは主との交わりの中にある故の悩みです。主を愛していない者は悩みません。むしろキリストとの交わりから自らを切り離して行っているのです。そういう人は結果的にのろわれるほかないのです。マラタ・タは、 この世界の終わりにおけるイエスキリストの再臨を待ち望む祈りです。日頃の助けも私たちには必要ですが、究極的な救いを待ち望む祈りはもっと必要です。15章では死者の復活という視点で、そのことを詳しく見て来ました。主が再臨されて、この世界が終わり、キリストはすべての支配、権威、権力、勢力を滅ぼして、父なる神に国(支配)を引き渡されます。最後の敵である死さえもです。それが神の支配の完成であり、私たちの救いの完成でもあるのです。今私たちが味わっている様々な苦しみは、目に見える現実において、神の恵みと力とは別の、世の力が支配していることで生じています。神の恵みを信じつつ、しかし世の力に振り回されているのが今の生活です。神の恵みも力も事実ですが、この世の人たちにはたわごとです。しかし、主の再臨によって、今は隠されているように見える神の完全な支配が顕わになります。信仰によってしかわからないことが、誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。それを見て喜ぶ信仰者がいて、反対に嘆く不信者がいるのです。「マラナ・タ」この祈りを、究極の希望をもって祈ることが私たちには許されているのです。その希望を、この聖書を見て信じて来ました。その原著者であるお方が実際に来られるのです。この世界を権威と力をもって始められたお方が来られるのです。死者の中からよみがえられて、私たちの罪と、それによる悲惨から完全に救うことのできるお方が実際に来られるのです。今後、この祈りが私たちの中から絶えることはないでしょう。