2020年11月8日 慰めに満ちた神

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 Ⅱコリント1:4 コリント人への手紙第二講解説教№1 Ⅱコリント1章1-11節 第二の手紙に入ります。冒頭は「使徒パウロ」の挨拶で、11節まで続いていると捉えて良いでしょう。第一の手紙とパウロ自身のコリント訪問もあり、兄姉たちが悔い改めて行くのですが、パウロの使徒性を疑うしこりはまだ残っているようです。信頼回復のためにもこの手紙を書いています。使徒とは復活のキリストの目撃者として神から遣わされた者です。言い換えると、使徒とは神の計画のために、苦しみを担う責任を負わされた者と言えます。パウロはその苦しみこそ使徒職の証印と自覚していました。それを意識しつつ、苦しみと慰めについて語っています。慰めはすべて神から来ます。人間が経験する慰めの唯一の根源が神にあります(3)。神の慰めは第一に、私たちがどのような苦しみのときにも慰めることができるものです。罪人のすべての罪と苦しみを十字架上で負われて死なれたのだから、それ以上の苦しみはありません。その上、その死と苦しみを打ち破ってよみがえられたのですから、慰めることの出来ないものはないのです。第二に、神の慰めは苦難に耐え抜く力を意味するものです。悲しみ、苦しみを紛らせたり、心を楽しませ、或いは静めるものではありません。血肉のからだである間は、新たな苦しみが次から次へと来ます。一時的な慰めには限界があります。後半、パウロは「慰めてくださいます」を、「救い出してくださいます」に言い換えています。苦しみに耐え抜く力が与えられたら、あとは自分で乗り切るというものではありません。仮に「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫(迫害)」に自ら耐えたとしても、内からの苦しみに耐えることが出来ません。パウロはエペソで、迫害による激しい圧迫を受けた時、「(パウロ)を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。」(Ⅱテモテ4:16)という心が折れる経験をしました。内外からの責めにより死を覚悟するほどの苦しみは、自分自身を頼らず、死者をよみがえらせてくださる神により頼むものとなったのです。どのような苦しみのときにも慰めることのできる根拠がこの神にはあるのです。この神の慰めは連鎖し、他のだれかを慰めることができます。紛らす慰めとしてではなく、苦しみに向かいながら耐え抜く力としての慰めを、他の兄姉に連鎖させていくことができるのです。