2020年12月27日 顔のおおいを取りのけられて

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映しながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 Ⅱコリント3:18 コリント人への手紙第二講解説教№7 Ⅱコリント3章4-18節  パウロが使徒であることの確実さを伝えるために、「新しい契約に仕える者」としての資格が神から与えられていることを伝えました。聖書の言う契約とは、神がその民の救いのために与えた秩序のことです。パウロは、「文字(旧約聖書)」と表現した旧い契約については、「殺し、」と表現しました。旧い契約のもとでの救いの秩序は、人を罪に定める働きのみだからです。「律法(旧い契約)には、後に来るすばらしいもの(新しい契約)の影はあっても、その実物はない」(へブル10:1)とある通りです。確かに律法で命じられている「いけにえ」の教えに従い、自分で育てた家畜を、いけにえとしてささげることで、「罪が年ごとに思い出される」(へブル10:3)のです。旧い契約のこの務めのゆえに「文字は殺し」なのです。それに対する「新しい契約(新約聖書)とは、「わたしの血による新しい契約(Ⅰコリ11:25)と呼ばれ、罪のないお方のいのちによって有効とされた救いの秩序です。これはイエスが旧い契約に従うことにより成し遂げられました。 「石に刻まれた文字」とは十戒のことで、私たちにとっては決して守ることのできない、むしろ罪の自覚を突き付けられるものでしかありません。イエスはその戒めのすべてを完全に守られたのです。律法(十戒)を成就されたことにより、イエスは旧い契約の役割を終えさせ、消えるべきものとされたのです。モーセがシナイ山で神から十戒を授けられたとき、神の栄光を反映したモーセの顔は光輝きました。消えるべき契約でも栄光に輝いたのであれば、新しい契約はどれほどの栄光で輝くのかということをパウロは言いたいのです。それに仕えるのが使徒です。モーセは自分の輝きをおおいで隠して見せないようにしました。旧い契約としての消えゆく栄光の消えていく様を見せたくないからです。顔のおおいは、神のことばに対する民の頑固さも表しています。民は、パウロが解釈したような、モーセの顔のおおいの真の理由を知りません。彼らはかたくなにも、旧い契約こそ救いをもたらすものだと信じています。それは今日に至るまで、おおいがかかったまま旧約聖書を朗読していると言います。罪を示す役割としてのもの、その役割を終えたら消え去るべきものだと理解しないで読んでいるのです。おおいは心の盲目さを表します。そのおおいはキリストによってのみ取り除くことが出来ます。すなわち新しい契約によってです。それはまず、イエスキリストを信じ受け入れることから始まります。