2020年9月13日 教会の真の姿 ~コイノニア~

また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたがひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように、勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。  Ⅰテサロニケ2:11、12 Ⅰテサロニケ2章11、12節  テサロニケ教会は、設立されて間もなく、迫害下で霊的リーダーたち(パウロら)が留まることが出来ませんでした。様々に整わないにも関わらず、「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡った…」(1:8)と、宣教が前進したのです。彼らの信仰の姿から、その理由がわかります。たとえば、1章9、10節。偶像から生けるまことの神に立ち返っただけではなく、彼らは聖書が示す救いの完成を待ち望むクリスチャンに変えられました。1章3節にも、彼らの抱く忍耐が、キリストの再臨と信者の復活という望みに支えられた忍耐であることが記されています。彼らはリーダー不在でも復活の信仰に生きています。第二の理由として、パウロらとテサロニケの兄姉たちとのかかわり方が挙げられます。効果的な育成がなされています。「…歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました」とみことばを教えているのですが、 「歩むように」つまり実践できるように育成されています。その教えも「ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく」というもので、やはり、罪と死に完全勝利し、イエスと同じ栄光のからだに復活するという救いの完成に向かっての教えです。これはまさに立川教会で取り組んでいるものです。パウロはこの教えをどのようなかかわり方で教えているのかというと、「父がその子どもに対してするように…ひとりひとりに」(11)、或いは「母がその子どもたちを養い育てるように」(7)です。親子のかかわりでたとえられているのは、そのかかわりが一方通行ではないということです。使徒20:7に見る、教会の集まりの特徴は、「…人々と語り合い」というものです。「ダイヤローグ」という原語が使われていて、「互いに~し合う」というふうに、御言葉の恵みを共有するかかわり方が示されています。「説教」は「モノローグ(独り言の意)」で、一方的に神のみこころを伝えるものです。教会にはモノローグとダイヤローグの両方が必要です。これからの立川教会に必要なのは後者です。コロナ禍でこそ、このような信仰の交わり、育成にむしろ集中すべきなのです。今年のヴィジョンである「聖書を真に知る」というのは、目指すものがそのあたりにあるのではないでしょうか。