2020年9月20日 死者の復活について(6)~天上のかたち~ コリント人への手紙第一講解説教№63

愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。 Ⅰコリント15:36 Ⅰコリント15章35-41節 朽ちてしまう死んだ人が、どのようによみがえるのか?という疑問に対して、自然界に見られることを例に答えています。種は土に埋もれて死ななければ、新しいいのちは芽生えて来ません(36)。蒔く種と収穫物とでは大きな違いがあります。種を切り開いて顕微鏡で研究することは可能でしょう。しかしそのいのちの原理の秘密は、わからないままです。しかし私たちが知っていることは、地に落ちた種から新しいいのちが現れるということです。これは神のわざです。同じように、私たちのこの肉体が死んで葬られたあと、それと同じ肉体が復活するのではありません。神によって、今のこのからだとは違う新しいからだが与えられるのです。これは神の意志によることです。今のこのからだから、復活のからだを類推してはなりません。今この世の生活から、永遠のいのちを生きる新しい生活も類推してはならないのです。聖書の新たな情報と合わせて考えなければなりません。 死者はどのようなからだで来るのか?(体の特色を問うもの)というもう一つの疑問に対する答えを見て行きましょう。肉、からだはみな別のもの、人の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉というふうにみな異なっています。太陽、月、星といった天上のからだもあれば、地上のからだもある。これらは神がみこころのままに造られたものです。神は様々に違ったからだをお与えになることができます。このからだをお与えになった神の力に、今の私たちのからだとは違う、復活のからだを与えられる希望の根拠があります。神はそれぞれお与えになったからだに輝きも与えます。天上の太陽、月、星と、それぞれに違った輝きを持っています。地上のからだの一つである私たちの肉体も輝きを持っています。しかもそれぞれ違う輝きです。復活のからだも輝きます。しかも、それぞれが違う輝きを持ちます。パウロが言おうとしていることは、復活した人のからだと輝きとには多様性があるということです。復活の実体が皆同じなのではありません。罪の支配から自由になるという点からは皆、キリストに似ます。しかし、物理的、身体的に似る者はひとりもいません。皆違うのです。私たちの復活のイメージを漠然としたものではなく、聖書からしっかりとしたものを持とうではありませんか。そうなれば、困難な中から、もっと希望を抱いて、元気に生活することが出来るでしょう。