2020年9月27日 死者の復活について(7)~天上のかたち 後半~ 

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。          Ⅰコリント15:44 コリント人への手紙第一講解説教№64 Ⅰコリント15章42-49節 小さな種から、まるで違う豊かな収穫物が稔るのは神のわざです。同じように、今のこのからだが死んで葬られた後、世の終わりに神によって全く新しいからだを与えられるのは神のみのわざです。今のこのからだは、朽ちるもの、卑しいもの、弱いもので「血肉のからだ」と聖書は表現します。元の言葉は「魂」とか「息」を意味し、私たちが良く知っているのは、神が人を創造されたときの記事です(創世記2:7)。神が土地のちりで人をかたち造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれることによって、人が生きるものとなりました。これが血肉のからだです。つまり血肉のからだをお造りになったのは神であるということです。私たちはこのからだが弱いこと、心こそ弱いことを知っています。心の弱さが体の表面に様々に表れると言っていいでしょう。人はこの弱さを何とかしたいと思います。それこそその思いを神に願うのが私たちではないでしょうか。しかし、聖書が言っていることは、弱いものとして神に造られているということです。罪こそ神はお造りになりませんでしたが、罪に陥る可能性を持った弱く、卑しいものとして、神は私たちを造られたのです。神のご計画が「種」を造ったところで終わったのではないように、神は人を弱いままで終わらせてはいません。血肉のからだを生きている私たちが、御霊に属するからだを用意してくださっています。必ずその時は来るのです。血肉のからだの元は土地のちりです。神の息吹によって生きるものとなりましたが、神がいのちを取り去れば、死んで朽ちていくのです。一方、復活においては、人は聖霊によって生きるものとなります。「御霊に属するからだ」とはそのことです。聖霊によって生きるので、死んで朽ちることはありません。よみがえられたキリストが強いように、変えられる私たちも強いものとなるのです。すべての人間は土で造られました。つまり、最初の人アダムに皆似た者なのです。ところが、イエスキリストを信じた者は、天から出た者に似るのです。その者は天上のかたちを持つ者に変えられます。地上の生きる今は、弱さにもがく血肉のからだをもって生きなければなりません。しかし本当に変えられるときは、今のからだが死んで葬られて、再臨のとき、聖霊によって御霊に属するからだを与えられる、その時です。 再臨の時、生きている人がいるかもしれません。しかし、それはあまり重要ではありません。生きていたとしても、それは朽ちるからだだからです。それよりも、これまでに眠っていた人こそ、先に御霊に属するからだによみがえらされるのです。これこそ、希望です。