2021年1月24日 『土の器』の中の宝

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。  Ⅰコリント4:1 コリント人への手紙第二講解説教№9 Ⅱコリント4章6-15節 主のあわれみゆえに福音の務めについている私たちは勇気を失いません。さらにパウロは、苦しめられても窮することなく、途方にくれても行きづまることがないと言います。その強さは私たちに与えられている「宝」のおかげです。私たち自身は「土の器」に例えられていますから、非常に弱いのです。人間一般が弱いということではなくて、福音の働き(使徒的な働き)をする私たちが弱いと言っているのです。その宝とは「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」です。ここに、イエスのうちに神を見るという偉大な思想が語られています。イエスをいつも見続けるならば、神の栄光を理解できると言っているのです。そうすると、宝を福音とも受け取ることができます。宝の持つ力は、測り知れない神の力です。私たちは壊れてしまう弱さを担っているのに、神の力を内に秘めている存在なのです。弱さの中に、かえって神の力が働き、それによって私たちは窮することから守られるのです。「イエスの死をこの身に帯び」「イエスのために…死に渡されている」のが私たちです。しかもそれが「いつでも」であり、「絶えず」という私たちの生涯かけてそうなのです。そのことによって、イエスのいのちがこの身において明らかにされるので、苦難は悲観すべきことではなく希望なのです。イエスご自身、人という土の器をまとわれたことで、激しい苦難に会いました(十字架)。しかし神はイエスを死者の中からよみがえらせて、栄光を現されたのです。このイエスを自分の身に帯びて生かされていることをパウロは喜んでいます。聖書の視点に立つなら、苦難とは弱い人間が死ぬことです。しかしその苦難は、勝利と克服を力強く約束する「イエスのいのちが…明らかに示されるため」という言葉の下に置かれているのです。この苦難に絶えることのできる根拠は終末的な信仰です(14)。最終的には必ず、イエスと共に完全な者として復活させられるのです。完全勝利です。私たちの受ける苦難は、ただの苦難ではありません。イエスの苦難です。罪人を罪から救うための苦難です。希望の苦難です。