2021年1月31日 日々新たにされるいのち

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。  Ⅰコリント4:16 コリント人への手紙第二講解説教№9 Ⅱコリント4章16-18節  パウロは4章全体の結論として、「勇気を失いません」と述べました。またそれは、「…私たちをもイエスとともによみがえらせ」(14)にもかかり、復活と再臨の信仰があるから勇気を失わないとも述べているのです。しかし外なる人は衰えます。肉体も精神もある程度キープ出来ても衰えます。しかし内なる人が日々新たにされるので、勇気を失わないのです。内なる人とは、私たちのうちに住んでいる内なる人、キリストのことです。これは私たちが強くされていくゴールです。別の表現では、キリストに似ていくと言います。ゴールではキリストに罪がないように、私たちも罪を決して持つことのない者となります。外なる人がどんなに衰え、苦難にあっても、内なる人であるキリストが日々新たにされていくのだから、決して勇気を失いません。もう一つの勇気を失うことのない約束が「重い永遠の栄光をもたらすもの」です。しかも、患難が栄光をもたらします。  苦難を受けるのは外なる人を持つ私たちです。それは「今の時(一時)の軽い患難(苦難)」です。パウロが「耐えられないほどの圧迫」を受けて、軽いと言うのは、内なる人の目から苦難を見るからです。よみがえり、或いは再臨の信仰の目から見るのであり、また重い永遠の栄光から見るのです。その神の偉大さはどこまでも永遠に威厳に満ちていて重量感があり、価値が高いのです。その神の栄光と比べるならば、軽く、一時の苦難なのです。クリスチャンが味わう苦難は神の栄光と必然的に結びつきます。ただ、苦難自体に価値があるのではありません。苦難を信仰的に見ることに失敗すると失望します。ですから内なる人の事実を見続ける必要があるのです。その上で、私たちは、苦難を欠いては栄光はあり得ないという所に立ちます。苦難は来るべき素晴らしい栄光の、今の姿を現すものと言えます。イエスの復活は十字架の苦難がなかったら、あり得ませんでした。キリストの復活は、十字架の苦難が終わり、過ぎ去るものであることを明らかにする出来事でもあったのです。同じように、クリスチャンの苦難は、命がキリストのいのちと結びついているので、キリストの十字架と共に過ぎ去る一時的なものとパウロは言います。それが今どれほど重く苦しいものと思われても、キリストから与えられるよみがえりのいのちと比べるなら、軽いものなのです。今、キリストと結びついている、その交わりの中で味わう苦しみは、必ず栄光をもたらします。