2021年2月14日 見えないものにこそ目を留めよ(2)

私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。  Ⅱコリント5:8 コリント人への手紙第二講解説教№11 Ⅱコリント5章6-10節  私たちが「いつも心強い」のは、御霊の保証付きで復活のからだが与えられることを知っているからです。「ただし」この壊れていく肉体を住まいとしている間は、主から離れているという現実もあります。確かに聖霊(助け主)によって主がともにいる霊的な助けはあります。しかしこの肉体は天にいます主と離れているのです。顔と顔とを合わせてイエスを見ることの出来ない今は、信じる信仰によって見て喜んでいます(Ⅰペテロ1:8,9)。このように心強いのですが、それよりもむしろ、この「肉体を離れて、主のみもとに(共に)いるほうがよいと思っています」とパウロの一番の願いを述べています。とは言うものの、肉体を住まいとしている間を、避けたい、好まないとは思っていません。パウロにとって今は、尊い使命としての「この務め」(4:1)があります。衰える肉体を承知しながらも、内なる人が日々あらたにされていくのを喜びながら、宣教に励むのです。どちらしても主に喜ばれることなのです(9)。なぜ、主に喜ばれることをするのか、その動機が極めて重要です。主のみもとにいたいからです。主と共にいたいからなのです。天国は、何をもって天国というのか、それは霊において、完全な肉において、永遠に神とともにいることからです(黙示録21:3,4)。天においては死がなく、叫び、苦しみがないのは、霊肉ともに完全な状態で主が永遠にともにおられるからです。今、その天のイメージを持つのには限界がありますが、救いに与かっている私たちには、決して奪われることのない希望であることは確かです。私たちは必ず「キリストのさばきの座」に立ちます。そこは罪が裁かれるのではなく、信仰者が地上で行ったすべてのことの報いを受ける場です。賞が欲しいから従い励むのではありません。主と共にいたいからそうするのです。イエスが今天におられるのは、私たちのために住まいを用意するためです。準備が出来たら、「また来て(再臨)、私たちをイエスのもとに迎えてくださいます。何のためでしょう?「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:2,3)私たちの心強さは、天の完成形から来ます。その実現はもうすぐですから、今の時を励みましょう。