2021年2月28日 キリストの愛が取り囲んでいる

というのは、キリストの愛が取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。Ⅱコリント5:15 コリント人への手紙第二講解説教№12 Ⅱコリント5章11-15節  パウロの使徒性を疑い、非難し、彼の品性までも疑ってしまうコリント教会の兄姉たちに対して、パウロはそうではないことを説得につとめます。パウロの働きが愛をもって誠実に行われていることを、神の御前には明らかなのですが、それを兄姉たちの前にも明らかにしたいと、実にストレートに投げかけています。兄姉たちが、コリント教会内にいる「心においてではなく、うわべのことで誇る」反対者たちに、『パウロこそ正真正銘の使徒です』と応じられるようにしたいのです。「もし気が狂っているとすれば、それは神のため」とパウロが言っているのは、実際にパウロの品格を疑って「パウロの働きは気が狂っている」と言っていたのでしょう。そんなことを言われれば腹を立てます。しかしパウロはそれを否定しません。パウロの最大の関心が神だからです。とは言っても盲信にはなりません。神に関心がある人は、必ず他者への配慮が伴います。うわべを誇る人たちは自分にのみ関心があるのです。パウロの言動の動機は、キリストへの畏れと愛です。よみがえりのからだが確約され、キリストの御前で報いを受けることが定められている「そのため、主を恐れることを知っている」(2017年版訳)それが動機となって兄姉と愛をもってかかわることができているのです。もう一つの動機は、キリストの愛です。パウロにキリストの愛が取り囲んでいる(捕えている、駆り立てている、強く迫っている)からです。相手を愛そうという熱意や責任からだと、どうしても利己的な動機となってしまいます。キリストの愛は、私たちを義とするために、私たちの罪のために死なれた愛です。キリストの死にはもう一つの意味があります。それは私がキリストと共に死んだということです(ローマ6:8)。これは私たちを義とする贖いの死に対して、聖化としての作用です。キリストに似る者として、罪のないよみがえりのからだが約束されています。キリストと共に死んだ者は、自分の罪に死に、よみがえられたキリストと共によみがえらされるのです。私たちに対するキリストの死と復活がなかったら、永遠の滅びのみです。しかしキリストが私たちのために死んでくださった以上、もはや自分自身のために生きるということは成り立たず、私たちのために死んでよみがえってくださったキリストのために生きるのです。この畏れと愛とが動機となって仕えることができるのです。神と人との仕えずにはいられないのです。