2021年2月7日 見えないものにこそ目を留めよ

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。Ⅱコリント5:1 コリント人への手紙第二講解説教№10 Ⅱコリント5章1-5節 「耐えられないほどの圧迫」を経験したパウロが、なぜ苦難を「今の時の軽い患難」と言うことが出来たのか、もう少し追求しましょう。それは永遠の栄光の重さと比較してのことです。その説明を5章に入り、「幕屋」と「建物(家)」という言葉でしています。「地上の幕屋」とは地上の肉体のことです。「神の下さる建物」とは、私たちの復活のからだのことです。この対比は、衰えていく外なる人としての肉体と、日々新たにされる復活のからだです。目に見える肉体とまだ見ていない復活のからだです。幕屋(テント)は簡易で壊れやすく、何日も住むと疲れるものです。パウロは、これまでに肉体の受ける苦しみについて話して来ましたが、肉体の中で生きる生活はまさに、幕屋(テント)生活であるとたとえているのです。それに対して建てられた建物・家に住むことはどうでしょうか。すべて快適です。しかも聖書がいうところの建物は、「神のくださる建物、天にある永遠の家」です。これが復活のからだを指していることは間違いありません。衰え、壊れていく肉体(テント)と、朽ちない、復活のからだ(家)と、どちらが良いか比べるまでもありません。パウロはその先を行き、「天から与えられる住まいを着たい」と切望しています。この世のすべての悩み、苦しみに完全に勝利した復活のからだを着たいと望んでいるのです。「この幕屋にあってうめき」とは、壊れていく肉体があるためにうめいているのではありません。天からの住まいを着たいからうめいているのです。原語から「着る」は、着ているものを脱いでから着るというものではなく、「その上に着る」ものです。朽ちる肉体を脱ぐのではなく、その上に朽ちないからだを着るのです。肉体を脱ぐことにこだわっているのではありません。復活のからだを着ることにこだわっているのです。天国に行きたいというとき、「こんなに苦しいのはもう嫌だから、はやく、天国に行きたい」という動機にはなりません。「イエスと同じ似姿に変えられ、完全なからだとなるのだから、(天国を)心待ちにしている」のです。重い永遠の栄光はここに繋がるのです。神はこのための保証を付けてくださいました。御霊としての保証です。