2021年3月7日 キリストのうちにあるなら

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。 Ⅱコリント5:16 コリント人への手紙第二講解説教№13 Ⅱコリント5章16-17節  パウロは二つの新しい視点を提起しています。1つは、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ことです。キリストの十字架の死によって、信仰者はキリストと共に死にました。このことは必然的に、信仰者がキリストと共によみがえることを示しています。この事実は信仰者がもはや自分自身のために生きることを成り立たせなくしており、私たちのために死んでよみがえられた方のために生きるようになっているのです。勿論、喜びをもって自発的にです。もう一つの視点は、「人間的な標準で人を知ろうとしない」ことです。その人の見かけ、生まれ、社会的地位、財産の有無、称号や資格の有無…世の価値基準は、それらのもので人を区別しようとします。パウロもかつては、キリストを「新しい厄介な宗教が起こった、我々を脅かす指導者」というふうに、人間的な標準でしか知ろうとしませんでした。しかし、「今はもうそのような知り方をしません」と。もし私たちが人間的な標準で兄姉たちを見ているなら、互いに愛し合うというイエスの戒めに従うことは極めて困難となります。生まれも育ちも、正確も、神から与えられた賜物も違うのですから、人間的な見方をするなら、受け入れは困難で、表面的に交わるほかないのです。しかし、パウロは「もうそのような知り方をしません(すまい)」と決意表明しています。決意が出来る「新しく造られた者」という立場にいるからです(17)。もう古い判断の仕方は過ぎ去り、新しくなったのです。17節を見ると、新しくなった私たちが一変したかのような印象を持ちます。確かに、立場は一変しましたが、行いが一変したわけではありません。今だに失敗はするのです。私たちは「キリストのうちに」すなわち、キリストの中に入れ置かれたので、立場が一変しました。しかし、「私のうちに」はまだ途上です。変えられつつありますが、一変した立場と行いが一致するのはキリストの再臨の時です。そこに向かって日々歩んでいるのですが、古い判断の仕方はすまいと決意することはできるのです。その決意が、キリストに似る者としての聖化を遂げさせてくれるのです。