2021年3月14日 和解の務め

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。Ⅱコリント5:18 コリント人への手紙第二講解説教№14 Ⅱコリント5章18-21節  キリストのうちに新しく造られた者には「和解の務め」が与えられたと、関係修復中のコリント教会の兄姉たちにパウロは語りました。この務めが与えられたのは、神がキリストによって私たちをご自身と和解させてくださったからです。一般的に和解とは、もめ事があった者同士が譲歩し合って仲直りすることです。神と人との場合、神の側にもめる原因は一つもないので、神が譲歩することはおかしなことです。しかし聖書は、神のほうから和解したと言っています。生まれながらに罪を持つ人間は、今も神に背き続けています。背いているにもかかわらず、それに気づこうともしないのです。そのような背信者に和解の手が差し伸べられたのです。聖書が言う和解の務めは、争っている双方の寄りを戻す調停役ではありません。和解を誠意を込めて頼み込む「懇願」の務めです。放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11~)に登場する父の姿に、和解の務めを見ることが出来ます。父から離れ、好き勝手に生きた末に、生きる術を全てなくした弟息子が立ち返ったときの父の動作に注目しましょう。息子の帰りをずっと待ち続けたために、子を見つけ、かわいそうに思い、父のほうから走り寄り、抱き、何度も口づけをし、息子として迎えました。これが誠意を込めて和解を頼み込む懇願の姿です。実はたとえに登場する兄息子への対応にこそ和解の務めを見ることが出来ます。父と共に住みながら、父の喜びも悲しみも共感しようとせず、自分の価値基準で、ひたすら律法を守ろうと生きて来た兄です。彼は結局、弟も乳をも断罪しました。そんな息子に父は、「いろいろとなだめてみた」(15:28)のです。繰り返し繰り返し、呼び寄せ、なだめ、元気づけ、懇願したのです。弟も罪人、兄も罪を自覚しない罪人です。その者に対して、なだめることを止めない、それが神からの和解です。これは相手の罪を見過ごしたのではありません。聖書が繰り返し主張している「キリストによって…和解させ」(18)「キリストにあって…和解させ」(19)、「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(21)つまり、罪のないキリストを、罪そのものとされ、滅ぶべき私たちを十字架によってなだめてくださったのです。新しく造られた者は、このような和解における神の懇願を宣べ伝える「キリストの使節」としての使命が与えられました。パウロがそれであり、コリントの兄姉たちに手紙を通してメッセージを送ったのです。彼らがそれを聞いているうちに、パウロに対する間違った悪意に気づかされたのではないでしょうか。彼らもキリストの使節であることを。私たちもです。