2021年4月25日 死への悲しみ 生かす悲しみ

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。 Ⅱコリント7:10 コリント人への手紙第二講解説教№19 Ⅱコリント7章7節-10節 パウロは第一の手紙で、コリント教会の兄姉を厳しく戒めました。分裂のこと(4:6,14,21)、不品行のこと(5:1,2)、偶像にささげられた肉のこと(10:19,20)など、単に行為としての罪だけではなく、不信者と釣り合わぬくびきを負ってはいけないと(Ⅱ6:14)、神との関係に深刻な問題をもたらすものとして見なしていました。ですから厳しく問いたださなければならなかったのです。それに対する兄姉の反応が「悲しませたけれども」であります。ここでパウロは、悲しみに二種類あることを言っています。「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」です。その違いをもたらすのが「悔い改め」です。悔い改めは、「思いを変える」という元の意味があります。進んでいる方向を変えることを意味します。悔い改めることは感情的な事柄よりも、むしろ意志的な事柄のほうが大きいのです。悔い改めは、罪について悲しむのではなく、罪を捨てて正しい道に進むことが目的です。意志的と言われても、自ら変えられるとは到底思えません。事実自ら出来ないので、まず求められていることは、自分の罪を正直に認めることです。人は罪を犯したことで受けた仕打ちや損失を悲しみますが、罪そのものを悲しむことをしません。悔い改めは自分が犯したことを、自分のせいにするところから始まります。周囲の人たちの責任にしていては、いつまでも悲しんだままです。罪の性質を帯びた人間にとって、罪を正直に認めることほど抵抗のあるものはありません。そこをあえて、神は迫るのです。なぜでしょう?神のなぐさめを受けるためです。「なぐさめ」と「悲しみ」はつながっています。「なぐさめ」という言葉は、自分の姿を見て悲しみ、落ち込むことを通して、初めて神との正しいかかわりに帰って行くという含みのある言葉です。キリストも、実に端的に教えとしての原則を示されました。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と(マタイ5:4)。なぜ悲しむ者が慰められるのでしょう。それは私をなぐさめる方が寄り添い、私の罪の真相を示し、悔い改めを助けてくださいます。そうして私が神にお任せできることを得させてくださるのです。