2021年4月4日 主の復活記念 至高の希望

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。 ヨハネ20:15 ヨハネの福音書20章1-18節 イエスの死と埋葬の記述を、「死の中にいのちがある」と指摘した著者がいます。これは人間が理解する事柄ではありません。信ずべき事柄です。ローマ政府によってイエスの墓石に封印がされたこと、その墓石が開いていたこと、またイエスのご遺体に巻かれていた亜麻布が巻かれたままの状態で置いてあったこと、ご遺体がなかったことを、ヨハネとペテロが見ました。そして彼らはイエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を信じました。しかし、マグダラのマリヤは墓のところにたたずんで泣き続けています。彼女の言動からイエスを心から愛していたことがわかりますが(13.15)、愛するお方を亡くしただけではなく、ご遺体が盗まれてしまったと思い心が張り裂けそうなマリヤに対して、「なぜ泣いているのですか」とのふたりの御使いの質問は、あまりにも配慮に欠けていると思われるでしょう。ただ、よみがえられたイエスも、同じようにマリヤに尋ねておられるのです。イエスも、イエスに従う御使いも、泣く必要がないのに泣いているので尋ねているのです。詩篇の作者もしばしば、神が何か遠くにおられるような感じがして、「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」(詩42:9)などと神に訴えています。私たちも、自分の中だけで神の不在が成立しているという経験をしているのではないでしょうか。神は私たちのことを忘れはしません。あえて沈黙されているのです。それは、神がいつも私たちとともにおられることを気づかせるためです。マリヤに対しての質問も、泣く必要がないことに気づかせるためなのです。イエスキリストの復活と顕現は、まさにそのことの確かな証拠なのです。私たちは主の復活のもたらす効力にもっと気づかなければなりません。そして気づいたならば、イエスは極めて重要な事柄を、人々に告げるようにお命じになります。17節のことばです。これは、御父と御子の永遠のかかわりの中に、私たちが招かれるということです。それは、子とされたということであり、死がないということであり、永遠の親しい交わりが与えられたということです。