2021年5月23日 説教テーマ 与える生活

また、彼らといっしょに、もうひとりの兄弟を送ります。私たちはこの兄弟が多くのことについて熱心であることを、しばしば認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。  Ⅱコリント8:9 パウロはエルサレム教会を支援するために、三人を先にコリント教会に行かせることにしました。テトスとふたりの兄弟です。献金のことで三人もコリント教会に行かなければならないのは、お金のことで誤解がないように、「人の前でも公明正大なことを示す」ためです。教会内での誤解は解けても、コリントの町自体が誤解しやすい性質を持っていました。当時の異端的教えで、グノーシス主義というのが地中海周辺にはびこっていました。物質と霊という二元的な教えで、物質はすべて悪とし、それらと別の存在である霊的なものには悪の影響は及ばない。つまり性的な罪も、献金と称して自分の私腹を肥やすことも問題にはならないという考えでした。コリント教会に入り込んだ偽使徒たちの背景にもグノーシスがあったのです。信頼されている三人が遣わされたのは、そのような「人の前でも」誤解が生じないためです。三人に共通しているのが「熱心」です。テトスには、パウロがコリントの兄姉のことを思うのと同じ熱心があり(16)、「もうひとりの兄弟」には、「多くのことについて熱心」であり、「ひとりの兄弟」には特に言及されていませんが、「福音の働きによってすべての教会から称賛されて」いて、今回のコリント教会の献金(エルサレム教会支援)にも同伴するように諸教会の任命を受けているほどですから、熱心であることは言うまでもありません。この熱心を別の言葉であらわすと、「骨が折れる」です。パウロがコリントの兄姉に対する思いだけ見ても、骨の折れることの連続です。大変な思いをしても、面倒くさがらずに相手に尽くす、それが熱心です。テトスと二人の兄弟が選ばれたのは、それが備わっていたからです。問題点を指摘し、意見を言うだけなら簡単です。そこに実際に関わっていくことが骨の折れることなのです。その模範者はイエスキリストです。「互いに足を洗い合うべきです」と教えただけなら弟子たちにもできます。しかしイエスは教える前に、席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふかれたのです。実にイエスの生活そのものが骨の折れることの連続です。分け与えることとはそういうことです。私たちは神の使命のために一緒に苦労して働く共同の働きが求められています。