2021年5月30日 説教テーマ 祝福の贈り物

…どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。     Ⅱコリント9:5後半 マケドニヤ諸教会の献金の行為は(8:1,2)、コリント教会の信仰の姿に奮起されて始まったものでした(9:2)。コリントの兄姉の他の兄姉に分け与えて祝福したいという思いは本物でした。私たちもそうですが、キリストを信じて、神の恵みに触れた時、無感動のままではいられません。主のために何かしたいと願うものです。これは一時の感情ではなく、分け与えて一つとなるという原則の中に入れられた結果、私たちのうちに起こるものです。 ところが、人間の罪の性質は、与えることと正反対の方向に引っ張ります。罪の本質である自己中心があるからです。コリント教会の場合は、偽使徒の教えがきっかけでした。与えることが喜びであったに、自分のために自分のものを使いたいと願うようになってしまったのです。「この献金を、惜しみながらするのではなく…」(5)の「惜しみながら」は、「貪欲のように」という意味で、献金を自分のためにという貪欲な思いでするのではないと、パウロは教えています。ではどのように?「好意に満ちた贈り物として」するのです。 「祝福の贈り物」という意味です。聖書からこの言葉を拾うと、神から人への場合は「祝福」と訳され(エペソ1:3)、人から神への場合は「賛美」と訳されています(黙示7:12)。そして人から人への場合が「好意に満ちた贈り物」すなわち「献金」についての訳となっているのです。同じ言葉を旧約聖書に見ると、神の祝福が満ちて行く、或いは拡大して行くことが良くわかります(創世記12:2、1:12)。アブラハムに約束された、神の民が空の星、海の砂のように満ちて行く(数が増えたことではない)ことが、今の私たちに至るまで拡大し続けているのです。これは神から人へ、次に人から人へと祝福が受け継がれていくのです。そうであれば、神の祝福は自分だけのものではないはずです。自分を超えたグローバルな広がりを持ちます。神から人、人から人、さらに人から神へ賛美となって、栄光をお返しします。祝福の循環が永遠に続くのです。献金も単に増えるということではなく、満ちて行くものです。貧しいマケドニヤ諸教会が「惜しみなく施す富となった」と、それを証明しています。