2021年7月18日 礼拝説教 受けるより与えるほうが幸い

私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。                 Ⅱコリント11:10 コリント人への手紙第二講解説教№30 Ⅱコリント11章7-15節  パウロがコリント教会から報酬を受けないことが非難されています。報酬と言うのは、福音の働きに専念する人が、福音の働きから生活のささえを得るという主の定めのことです(レビ7:7-10、Ⅰコリント9:14)。非難の理由は偽使徒たちの、人に対する判断基準にあります。彼らいわく「使徒たる者は、推薦状があり、容姿も語りも堂々としていて、教会から報酬を受け取っていないことは権威を損ねる」パウロには非難を最小限にするために、報酬を受け取るという選択肢はありませんでした。「パウロも我々(偽使徒)と同じように誇るところがある」と見なされる機会、それが報酬を受け取る機会で、結局彼らはお金が欲しいのです。そのための推薦状、そのための権威なのです。パウロが報酬を受け取れば「金のためにやっている」と非難され、どちらに転んでも非難の対象になるのです。 「今していることを今後もし続ける」というパウロが意地を張っているようにも見えますが、そうではありません。偽使徒たちの極めて自分本位な思いとその機会を断ち切るためです。そうでないと、パウロが報酬を受け取った時、福音を売り物にしているとさえ非難されかねないのです。それを許すわけには行きません。「アカヤ地方(コリントのある地域)で私のこの誇りが封じられることは決してありません」(10)と言っている、その誇りとは「分け与える」信仰です。受けるより与えるほうが幸いというイエスの教えを貫くことです。周囲が理不尽なことを言っても、パウロのその方針を毛頭帰ることはないと言うことです。偽使徒たちの変装に対して、驚くに及ばないと言っているのは、彼らはどうやっても隠すことのできないものがあるからです。分け与えることです。それは与えるかのように見せかけることさえできません。与えることはキリストそのものだからです。罪のない方が、私たちの罪を赦すために十字架で苦しまれただけではなく、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」(ルカ23:34)の祈りは与え尽くすものです。それが福音であり、受けるばかりの私たちに差し出された救いです。キリストにとどまり続け、キリストと深く交わる者には、同じように与えることができます。