2021年8月8日 説教テーマ 自分の弱さを誇るとは(2)

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 Ⅱコリント12:9 コリント人への手紙第二講解説教№32 Ⅱコリント12章1-10節 兄姉たちに話しました。その狙いは、兄姉たちの霊的レベルにまで下がり、その信仰を引き上げるためです。彼は「第三の天」に引き上げられた驚くべき経験をしました。そこは神の介入なくしては決して行くことのできない天の領域のことです。4節では「パラダイス」と言い換えています。そこは人間には語ることを許されていないことばが話されていて、それを聞いたのです。人間に想像できないほど罪と汚れがないのが神のおられる第三の天です。パウロはそのような神からの栄誉を誇るのではなく、「自分の弱さ以外には誇らない」理由を7節以降に説明します。彼は第三の天の啓示があまりにもすばらしいために、高ぶることのないように肉体に一つのとげが与えられました。それはサタンの使いであり、サタン側とすれば、パウロの福音の働きを妨げるものです。彼はそれを「何度も」取り除くことを願いましたが、むしろそれは「決定的な」神のみこころでした。とげの目的の一つは高ぶらないためです。高ぶりの罪に勝てる人間はいません。肉体的疾患としてのとげに限らず、犯した罪により抱えている不自由さというとげ、他人や環境の存在から思い通りにならないとげ、自分の生まれ持った資質がとげとなる場合もあるでしょう。とげを望む人はおらず、なんとしても取り去りたいものです。しかしそれよりも悲惨なのは、高ぶりの罪を犯してしまうことです。そのことを悟るように導かれたパウロは、苦しみの目的を主からの恵みのメッセージとして受け取るようになったのです。とげが与えられた目的のもう一つは、「キリストの力がおおうため」です。弱さを誇ることは、「キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじている(喜んでいる)ことです。その結論が、「私が弱いときにこそ、私は強い」です。その根拠がキリストの復活の事実にあります。「弱さ」という言葉は「敵に打ち破られる」ことを意味します。つまり神はパウロがサタンの使いに打ち破られることをおゆるしになられたということです。その弱さのゆえに、死者をよみがえらせてくださる神をより頼む者となるのです(1:9)。弱さを自覚すればするほど、パウロの拠り所が常にキリストの復活にあることがわかります。キリストの復活の力がおおうからです。