2021年8月1日 礼拝説教 自分の弱さを誇るとは(1)

もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。                 Ⅱコリント11:30 コリント人への手紙第二講解説教№31 Ⅱコリント11章16-33節  パウロはコリント教会の信頼を回復しつつも、偽使徒たちにだまされている兄姉たちの信仰の建て上げを、彼らの霊的レベルにまで下がって行います。その方法は、パウロ自身が誇ってみせるという驚くべきものです。兄姉たちは偽使徒たちの発する律法の奴隷になっています。また、みことばを巧みに利用して「だまされ」、献金を「食い尽くされ」、「いばられ」「顔(まで)たたかれ」ている始末です。その兄姉の姿を考えると、パウロは自分があまりにも遠慮し過ぎたと思わざるを得なかったようです。それこそ当初からパウロが自分を誇っていたら、むしろ評価されていたのでしょう。これからパウロは本当に誇って見せます(22-28)。彼らがイスラエルから出た純血のへブル人、またアブラハムの子孫だと誇るが、パウロも事実そうだと。ところが、その選民がメシヤを拒絶したために、今や神に除外され、選民も異邦人も関係なく、だれもがキリストを信じることによってのみ救われるということです。彼らの選民意識としての誇りは無駄です。それを承知の上で、パウロが自分の誇りとして彼らに譲ることが出来なかったことは、「キリストのしもべ」であるということです(23)。23項目もの苦難がその根拠です。主のしもべ或いは使徒としての証明書があるとすれば、それは、いかに主のために多くの苦しみ、試練を通って来たかにあります。この理屈に全く当てはまらないのが偽使徒です。23項目の最後に挙げた苦難が「教会への心づかい」、パウロの最大の苦難がそれです。教会への重荷は終わりがないゆえです。「だれかが弱くて、私が弱くないということがあるでしょうか…」とパウロは自分の弱さを隠しません。それどころか、それを誇っているのです。弱さを誇るとはどういうことなのか、32、33節にあるパウロの救われたとき、最初に受けた迫害の出来事が答えを示しています。かごに吊るされて逃げる姿は、かつてのユダヤ教の有力な指導者であり、イエスを抹殺しようとした者です。ところがイエスによって救われなければならない、誰よりも罪深く、弱い者だと知った瞬間でした。その自覚と同時に、パウロはイエスの弱さを悟ったのです(イザヤ53:1-3)。その方がほかでもない、罪人のかしらであるパウロのために十字架で刺し通されたその事実を知ったのです。彼はもう自分の弱さを誇るほかなく、苦難の主と同じ道を歩むことを決意したのです。