2021年10月17日 説教テーマ 信仰の従順

このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。         ローマ1:3 ローマ人への手紙 講解説教 №4 ローマ1章5-7節  「このキリストによって…恵み…を受けました」ユダヤ教の厳格な一派だったパウロは、キリスト信者の殺害に同意するほどの迫害者でした。このパウロにイエスご自身が出会われ、神の御子、救い主であることを彼に明らかにされました。イエスはパウロを救い、福音の宣べ伝える者としてくださったのです。生き方が180度転換しました。ただ、このことはパウロのこれまでの生き方や考え方が間違いであったと気づき、真実に生きようとパウロ自らが方向転換したということではありません。真理と真理に生きる人たちを撲滅するような大罪を犯したパウロに、回心に至るために、何かをすることなど不可能です。キリストが一方的に彼に近づき、救おうとする意志をお示しにならなければ、何も始まりません。パウロは救われるために、その罪が赦されないといけません。それは彼自身がどうする事も出来ないことです。パウロの罪を赦すために、既にイエスは十字架上で事を為してくださっています。その十字架故に彼は赦されています。パウロが「恵み」と表現したのは、彼自身のうちで回心し、これまでの歩みを反省し、新しく示された道を彼が選び取ったのではないということです。パウロの反省も努力も精進も、何の役割も果たしてはいないのです。 パウロがキリストによって、恵みと使徒の務めを受けたのは、人々(異邦人)の中に信仰の従順をもたらすためです。選民であるユダヤ人は、異邦人たちが神の救いに与かることはあり得ないと信じていました。ですから救われるためには律法に従って異邦人をユダヤ人に回心させなければならないと考えていました。ところが、ユダヤ人であるパウロがキリストに出会って、自分こそ救いに与かるなどあり得ない、という経験をしてしまったのです。そのパウロが救われたのだから、その救いは異邦人にも及ぶと確信したのです。信仰の従順とは何か?パウロの不従順さを突き付けられた経験から、福音の根本には、そもそも救いを得るにふさわしいほどに、従順である人など存在しないということです。だからこそ、神が人となられて、私たちに救いをもたらしてくださったのです。人となられたお方が徹底的に御父に従順になられ、私たちが決して従順になれないからこそ、キリストは従順になられました(ピリピ2:6-8)。そうなると、信仰の従順とは、キリストの十字架と復活が私のためであることを、そのとおりですと信じること以外にはない、ということです。