2021年9月12日 説教テーマ 「真理に従えば力がある」

私たちは、あなたがたがどんな悪をも行わないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行いをしてもらいたいためです。 Ⅱコリント13:7 コリント人への手紙第二講解説教№35 Ⅱコリント13章7-10節  「…今度そちらに行ったときには、容赦はしません」(2)パウロの厳しい態度は、コリント教会で罪を犯している信徒への懲らしめでした。パウロは教会の中にある罪を黙認することによって、兄姉たちが悪を行わないようにと祈っています。黙認と懲らしめ、人間的に言うなら、黙認するほうがずっと楽です。なぜなら懲らしめる行為は愛がないと決して出来ないからです。パウロの姿からそのことを確認します。パウロは、罪ある兄姉を懲らしめることで、パウロ自身の適格さを明らかにすることを否定しています。パウロは偽使徒と疑われ、彼の厳しいことばや教えがキリストからのものか、証拠を要求されていました。もしパウロが、キリストの権威をもって、罪ある人たちを懲らしめ、 彼らが罪を止めてパウロに従うことをするなら、まさに教会の兄姉たちが求めていた証拠を示すことが出来るのです。しかしパウロは、その適格さを見せることはどうてでもいいと言っているのです。仮に不適格のように見られても、兄姉たちが罪を黙認することを止めて、罪をさばくと言う善を行ってくれるなら、どう見られようと構わないと言うのです。パウロがまず他人の利益をはかる者であることがわかります。そのことで自分が益々不利益な立場に置かれても、兄姉たちが正しい行いをすることを望んだのです。 この主張を保つことができたのは、「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできる」(8)ということがあったからです。信仰者が行うことはみな神の真理を推し進めるためになされなければなりません。自分の利益を先に考えてしまうような利己的な動機が、真理をすすめる理由になってはならないのです。パウロが兄姉たちを懲らしめるという時にも、少しの復讐心でも含まれるようであってはなりません。真理のためなら何でもできるとは、教会を築き上げると言う神のみこころを行うことにおいて何でもできると言う意味です。これは利己的な思いからは出来ないことです。「真理に逆らっては何をする力もなく」(口語訳)なのです。しかし、「真理に従えば力がある」(口語訳)のです。どんなに悪く言われ続けても、一貫として聖書の主張を変えなかったパウロにこそ力があると言えるでしょう。