2021年10月31日 説教テーマ 「福音を恥としない」

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべてのひとにとって、救いを得させる神の力です。 ローマ1:16 ローマ人への手紙 講解説教 №6 ローマ1章16-17節  ローマの兄姉たちが、福音を正しく、その深みを知ってもらうために、パウロは「ぜひ福音を伝えたい」と熱心です。それは彼らが福音を恥とすることがないためです。パウロ自身の宣言とも取れる「私は福音を恥とは思いません…」その根拠は、福音が救いを得させる神の力だからです。その神の力は、イエスを信じる者だけが得ることが出来ます。なぜなら、人の根本的な救いは、人間のどんな力をもってしても不可能だからです。人の知恵も、能力も、積み上げて来た努力も、人を救うことは出来ません。人は確実に死に向かっています。ですから、人は神から提供された福音を、ただ信じること以外には何も出来ないのです。福音を信じない人には、救い得る神の力は決して得られません。 信じない人には福音は恥なのです(Ⅰコリント1:22,23)。ユダヤ人の求める救いはイスラエル国家の実現です。彼らにとってイエスの十字架(福音)はつまずきです。十字架についてしまったら政治的な救いが出来ないからです。ギリシャ人を代表とする異邦人の救いは、自分にとって価値あるものを実現させてくれるものです。それを可能とするのが知者、強者です。彼らにとって、すべての人間を神の御前で罪人としてしまう十字架は愚かでしかありません。結局すべての人間が福音を恥としたのです。しかし、パウロはその福音の中に、神の義が啓示されていると述べました。義とは神との正しいかかわりを意味します。福音はいかにして義を得ることが出来るかということが啓示されています。パウロ自身を通して義について考えてみます。神への反抗の極みであったパウロは、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:3)と突如イエスに呼びかけられました。それは最初の人アダムが罪を犯したときに、「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)と神に呼びかけられたのと似ています。それは所在の確認ではなく、 神の愛する対象として、正しいかかわりを案じての呼びかけです。その神とのかかわりを破壊し続けて来たパウロの目の前に、イエスからの呼びかけられた事実を突きつけられました。それを信じるかが問われています。イエスを信じるとは、人の利益につながるイエスの何かを信じるのではありません。イエスの教えを道徳向上として信じるのでもありません。あなたはどこにいるのか、という愛の呼びかけとして信じなければならないのです。