2021年11月14日 説教テーマ 自由から得た結果(1)

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 ローマ1:18 ローマ人への手紙 講解説教 №7 ローマ1章18-23節 「真理」言う場合、それは、創造者である神と被造物である人間という関係のことを言い、崇められる神と礼拝する人間という関係、愛し、語る神、愛に応答し、聞き従う人間という関係のことを言います。両者のそのような正しい関係が逆転したことに神の怒りが向けられています。すなわち、まことの神を拝することを止め、神の代わりに人間、動物を礼拝したことにさばきが下るのです。神の怒りは、人の「心の欲望のままに汚れに引き渡」すという形であらわれます。神が自由意思を備えて人を創造されていることからも、人は自由です。ですから、私たちは自分の意志で神に聞き、神に従うのです。ただ、正しい神との関係を人が捨てた場合、そこにも自由はあります。神を聞かず、神の代わりの自分の好きな神々をつくることもできます。それが「心の欲望のままに」という部分です。実は、それ自体が神の怒りなのです。人が自由過ぎるほど行うことが出来ますが、その結果からは自由を得ることは出来ません。その行ったことの報いを受け取るのです。それが人の自由を含めての神の怒りと審判の遂行なのです。神の怒りが必ずしも、直接的な不幸であるとか、天災として起こることとは限りません。人の罪は、人が自由だと思っている欲求そのものに、しがみつかされている恐ろしいものです。そこから離れることが出来ないのです。人がそれを自由だと思っていることはもっと恐ろしいことです。それが神の怒りの審判だと人は知らないのです。神の力は、罪の力をはるかに上回ります。十字架上で既に罪に力は破壊されています。逆転していた神との関係が正されます。神との関係が正されている今、たとえ罪を犯しても、悔い改めて赦されるのです。もし罪にかかわることに心を惹かれることがあるなら、神との関係がどうなっているのかを熟慮すべきです。心の欲するままの人間の行く末は、互いにそのからだをはずかしめるようになることです。人間の自由を最も端的に表しているのは性の放縦でしょう。その結果は自己破壊です。パウロは再び25節で、神と人との正しい関係としての真理について言及します。その真理を「偽りと取り代え」た人の偶像礼拝の姿を述べたと思ったら、いきなり、神をたたえて、「アーメン」と! これは神と人との正しい関係を知っている人の理屈です。被造物のむなしさを知るなら、それ以上に神の偉大さがその人の内に突き上げて来るのです。