2021年11月7日 説教テーマ 真理を阻む不義

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。  ローマ1:18 ローマ人への手紙 講解説教 №7 ローマ1章18-23節  なぜ人には福音が必要なのでしょうか。彼らが滅びてしまうからです。神の怒りが真理を阻む人間に向けられています。ここで言う真理とは、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)という神の御名からわかる神の絶対性、思いのまま存在される自存性、永遠性から来る真理のことです。新約では「昔いまし、今いまし、後に来られる方」と紹介されているイエスに見ることのできる真理です。人は造られた被造物に過ぎず、神は神です。神が語り、人は服従するという正しい関係がそこにあります。この正しい関係にある真理をはばむものが不義です。創造主に造られた者たちが依存して初めて存在し得るのに、人は神を求めることを止め、自分自身を求め、自分にだけ執着しました。神を拒み、神としなくなった、それが不義です。この人間に神の怒りが向けられています。その怒りは、神を知らなかった人にも向けられた不当な怒りではありません。神は被造物を通して、人間に神がわかるように造られていたのです。「人の心に永遠を与えられた」(伝道3:11)お方は、ご自身が永遠のお方であることもわかるようにされたのです。人は神を明らかに知り得るのです。神を知ることが出来たのに、人はそうしなかった、知ろうとしなかった故意の反抗がそこにあるゆえに、人には弁解の余地がなく、神の正当な怒りが向けられたのです。人は神に感謝などするはずもなく、その思いは単なる哲学や存在し得ない神々を作り、益々むなしくなりました。結果として、人の心は神を知る能力も見る力も失った「暗さ」だけが残り、知らなければならないことを決して知ることがない愚かな者となったのです。人には神を拒む自由も、神に感謝しない自由もありましょう。しかし、その結果を避ける自由は絶対にありません。その人の行く着く先は、まことの神以外のものを礼拝対象として取り代えた偶像礼拝です。絶対者、永遠のお方が神、それに従うのが人間。その正しい関係を逆転した姿がここにあります。人が神をいいように造り、その欲のままに自らを一番上に置いてしまった、そこに神の怒りが向けられるのは当然のことなのです。なぜ人には福音が必要なのでしょうか。そのままでは滅びるからです。その福音には、逆転してしまった神と人間との関係を、正しいかかわりにする(神の義)ことが啓示されているのです。私たちはその福音を正しく理解し、宣べ伝えなければなりません。どうしても。