2021年11月28日 説教テーマ すべて他人をさばく人よ

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているのです。     ローマ2:1 ローマ人への手紙 講解説教 №9 ローマ2章1-5節 「すべて他人をさばく人よ」とパウロは、新たな展開を述べて行きます。他人をさばく人とは1章で述べて来た「神を拒否し、欲望を止められず罪を犯し続ける者、そのさばき」を「それは私には当てはまらない。彼らにこそ当てはまる」という聞き方をした人たちのことです。他人をさばくその人は、「そういう罪人に神の審判がある」ことを知っているというだけで、さばくその人自身が罪から自由になっているということではありません。むしろ、他人をさばくことで、自分自身を罪に定めているのです。どうやらパウロは、さばく側をユダヤ人として、さばかれる側を異邦人として見ているようです。ローマ諸教会には、そのどちらのクリスチャンもいます。ユダヤ人クリスチャンは1章で指摘した偶像礼拝、同性愛を律法で厳しく禁じられていますから、それらを重大な罪と認識していました。その彼らが1章部分を読んだとき、「偶像礼拝を日常とし、同性愛を罪としていないローマ社会で救われた異邦人クリスチャンたちにこそ、あてはまる教えだ」とさばく心になる、パウロはそれを見込んで、2章を書いているのです。ユダヤ人クリスチャンも同じ罪を犯していると責めます(3)。目に見える像を拝まずとも、創造者と被造物の関係を逆転させたところにある偶像礼拝ですから、神と人の立場を逆転させた発想そのものを同罪としています。自分の欲が神よりも上で、自分のために便宜をはかってくれる神を求めること自体同罪なのです。「神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか」と厳しく罪を告発します。正しい福音理解を伝えるパウロは、絶対に立たなければならない神の審判の前に立たせ、真理の光に照らされて、自分の罪に目覚ましめようとしています。執拗に罪に迫るのは、福音に基づく正しい神との関係に戻すためです。怒りと審判が目的なのではなく、彼らの信じる神が慈愛の神であることをわからせたいのです。慈愛の神を軽んじてしまうのは、かたくなさと悔い改めない心です。自分に固執する強情さ、生まれながらの罪の心に閉じこもり、慈愛の豊かさを拒む心は、神の怒りを積み上げていきます。慈愛のうちにある忍耐と寛容ゆえに、さばきを遅らせていると言うことが出来ますが、その猶予の部分に神の怒りが貯蓄されるのです。