2021年12月12日 説教テーマ 心に書かれている律法

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。 ローマ2:16 ローマ人への手紙 講解説教 №11 ローマ2章12-16節 ユダヤ人も異邦人も、神の前にすべて同じ条件でさばかれます。律法のあるなしは関係ありません。さばく手段、方法に区別はあっても、神はえこひいきなく、その人が罪を犯したか否かでさばきます。パウロは律法所有を特権視するユダヤ人に対して、「律法を行う者が正しい」と強調します。それはイエスの教えからも明らかです(マタイ5:1-7:29、ルカ8:12-15)。律法(神の教え)を、「聞いた、知った、教えられた、感動した」 だけでは真理とは言えません。その教えを行う者が神の前に、最後の審判において、無罪、義の宣言を受け、救いにおける神との真の交わりに入れられるのです。異邦人である私たちは律法を持っていません。しかし、その異邦人が、律法の要求していること(偽りを言ってはならない、盗んではならない…)を、どういうわけか、自然と悪いとわかっているのです。彼らは律法の命じるところを行っていることがあるのです。それが「自分自身が自分に対する律法」(14)です。律法は異邦人の「心に書かれて」います。だから、律法を持っていなくても、律法が正しいということを生活の中で認めているのです。何が間違っているということも、神が供えられた「良心」とともにわかります。神のさばきは、公然と犯した罪、自覚のある心の内の罪を犯した者のうちに下りますが、「隠された」罪もさばかれます。秘密にして誰にもわからないものも、当の本人も自覚できないほど意識下に沈んだ罪も、そのさばきをキリストに全面的にゆだねてさばかれるのです。すべての人間は、一つも取りこぼされることなく、この世のあらゆる状況の中で、神のさばきの前に、責任を負って立っていることになるのです。パウロはこのことを、「わたしの福音によれば」と言いました。これが福音です。不当な苦難の中にいる善い行いをした人たちにとって、正しい終末的さばきは福音でなく何でありましょう。福音は喜びの訪れ以外の何ものでもありません。私たちは救いの力をもたらす、或いはすべてをさばく福音の恵みに与かっているのです。さばきはこの方にお任せして、私たちは最後まで、この福音をすべての人に対して宣べ伝え続けましょう。