2021年12月19日 説教テーマ 沈むことのない光

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に光が上った。           マタイ4:16 2021年イエス・キリスト降誕記念 マタイ4章12-17節 2年続いてのコロナ禍でのクリスマスとなりました。人々をご招待することが出来ず残念ですが、私自身は救い主が与えられたことの有難さを、コロナ以前よりも大きく抱いています。本気で救い主の必要性を覚えることが出来ることは幸いです。それは全世界的なパンデミックの今、その必要は必然となるかもしれません。きょうのテキストに登場する「ガリラヤ」もそれと重なります。イエスが救い主としてこの世に来られて、最初に活動されたところがガリラヤでした。それは聖書の預言の成就です(イザヤ8:22-9:7)。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているように、当時のユダヤ人たちはガリラヤを良い所とは見なさず避けていました。そこは旧約時代のゼブルン、ナフタリに当たるところですが、アッシリヤ(異邦人)の侵略を早々に受けたところでした。中心のエルサレムではなく、避けるべきガリラヤに救い主が行かれたことは意味深いのです。聖書はイエスがガリラヤに行かれたことを、ご出身のナザレを去ってから、ガリラヤに「立ちのかれた」と記しています。引き下がったということになりますが、マタイはその直接の理由を、「ヨハネが捕えられた」からとしています。ヨハネの結末は殉教です…それを避けるためにガリラヤ?また、ルカは別の視点で、ナザレの町の人たちから追い出されてガリラヤへ行かれたと記しています(ルカ4:16-31)。その理由が興味深いです。ある安息日にイエスが会堂で説教したとき、イザヤ書61章をお読みになりました。その際イエスはあえて、一つのみことばを省かれたのです。お読みになったところは救い主がこの世に来られた目的が今成就したということで、省いたところは「われわれの神の復讐の日」のことでした。ユダヤ人たちにとって救い主とは、国の回復と敵への復讐をしてくれるお方です。そこを省かれたとあって怒ったのです。もちろん、神は復讐の神です…しかしそれは終末におけるさばきの時です。ですから、救い主として来られて、活動開始されたイエスの説教、聖書の引用は適切だったのです。ユダヤ人たちは何から救われるのか、その意味をはき違えていたのです。ガリラヤの人たちは救い主の存在を、心底必要としていました。暗やみの中、或いは、死の地と死の陰にすわる者とは霊的やみ、霊的な死である人々という意味です。光であるキリストを受け入れない限り、やみと死から免れることは出来ません。イエスがガリラヤに立ちのかれたのは、必然であり、「立ちのく」という隠れの中で神の新しい事が始まるのです。ガリラヤから輝き始めた光は沈むことがありません。今なお光っているということです。先に光を頂いた私たちは、その光をより輝かせるべく、反映させていく責任があります(ヨハネ8:12)。唯一の救いをもたらすイエスを宣べ伝えましょう。