2022年1月2日 説教テーマ 神の栄光を現す

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。              イザヤ書43章1節 コリント第一の手紙6章19-20節  福音を正しく理解するために、福音のうちに啓示された神の義の理解が大切です。神の義とは神と人との正しいかかわりのことです。人が故意にそのかかわりを壊したことが罪と言います。パウロはユダヤ人たちが自覚をしていない罪を指摘します。それは「律法を持つことに安んじ」との指摘です。確かにユダヤ人にまず与えられました。彼らはそのことが選民のしるしでもあり、自分たちの正しさを指し示すものと自負していました。また彼らは律法に示されている、神のみこころを知っている、神が何をしようとされているか、自分たちがどう仕えたらいいかということを知っていることで、自分たちが正しいと見なしていたのです。神もそう思っておられるでしょうか?クリスチャンとして礼拝に出席することは良いことです。しかし、もし礼拝を守ることが、神が聖別された神のための日、復活の主を記念する主の日であるという内実がわからず、それに伴う従順と喜びもなく、ただ礼拝を守ることが正しいとするなら、パウロの指摘通り、そのことに安んじている、ただその行為に寄りかかっているということになります。その流れから「神を誇る」ことも、神ご自身を誇るのではなく、偉大な神を持っている自分を誇るのです。神さえ自分の正しさを主張する所有物にしてしまうのです。律法を持つ者としてユダヤ人たちは教える立場にいる者は、その教えるというところにも安んじるのです(19,20)。そして、「人を教えながら、自分自身を教えない」(21)と、彼らの表と裏、口先と行い、教えと現実生活の矛盾を鋭く指摘します。「盗むなと説きながら…」十戒の一つですが、彼らにとって絶対に守らなければならないものであり、守ることは当然のものです。しかし聖書は、人の物を取ることだけを盗むとは言っていません。例えば、自分の都合と余裕のあるときだけ礼拝をしていたとしたら、それは神のものを盗んだことになると教えます(マラキ3章)。 彼らはいわゆる儀式にも安んじます。25節以降の「割礼」の儀式は、神の約束に対して民の従順を表す儀式、目に見える外側のものです。その問題においても、見えない内実が問題であるとパウロは言います。ユダヤ人たちがこれほどまで外側を気にしたのは、人からの評価を恐れてのことです。 聖書は「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」と述べています。その前に、「自分のからだを何のために用いるのか?」ということと、「自分のからだは誰のものか?」ということを考えなくてはなりません。前者はだれもが考えることで、「自分のからだは自分のもの、その自分がからだの用い方を決めるのは当然」と考えます。この問は道徳的、倫理的なものです。それに対して「自分のからだは誰のものか」は、信仰的な問いです。