2022年1月16日 義人はいない

「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」  ローマ3:18 ローマ人への手紙3章9—18節 講解説教№14  罪ある人間は基本的に、自分は正しく相手は間違っているとします。その位置から自分の中にある罪の本質を認めることは実に難しいのです。この手紙の読者のひとりであるユダヤ人クリスチャンたちがそうでした。パウロは彼らに「すべての人が罪の下にある」と責めました。ここで語る「罪」は初めて語る内容です。パウロは1章で既に罪について語っていますが、それらは人の罪の行為です。自分の意志で罪が行われている個々の罪です。しかし3章9節以降で語られている罪は、人の思いと行いとを支配している強烈な力としての罪です。人が「これではいけない」と反省して、心を入れ替えて気を付けよう」と言って解決できるような罪ではないのです。もし自分が主導権を持って犯す罪であったなら、自分の努力次第で、その罪から抜け出すことも可能でしょう。倫理、道徳の教えはそれです。しかし聖書が示す罪は、人の思いと行為とを完全に支配している力のある罪なのです。心を入れ替えても決して解決できません。9節の「罪」という言葉は、聖書の原語の「しくじる、的に当たらない」という意味の言葉です。人間の失敗や不完全さを指摘しますが、その不完全さのもっと根底に横たわっている恐ろしいものであることを聖書は主張しているのです。その人間の罪について、旧約聖書のことばを引用しているのが10~18節のことばです。例えば「悟りのある人はいない」は神を知る人はいないという意味で、人は罪の支配下に置かれることで、「神を求めなくなります」人の罪は、あれこれの悪い行いから始まるのではなく、神を求めなくなるところから始まります。そのように、10~12節は神と人との関係の破れとしての罪の指摘です。13~14節では、「のど、舌、口」とあるように対人関係において、相手を愛し、思いやることの不可能な罪の実態を指摘しています。神との関係が破れた人は、人との関係においても破れてしまうのです。15-16節は「足、道」とある人の行動、生き方のことです。「血を流す」つまり争いの絶えない人とのかかわりが、罪の本質を証明しているのです。罪の支配下にある人間の究極は「神への恐れがない」ことです。罪を犯して良心の呵責を覚えても、神の前に罪を認めようとはしません。1章からはじまった徹底した罪の指摘を聞き続けることは良い気分ではありません。しかしそこには神の意図があるのです。目をそらさないで、その意味が明らかになるまで尋ね続けましょう。