2022年1月23日 救われるために 

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」  ローマ3:20 ローマ人への手紙3章19—20節 講解説教№15  神はユダヤ人に律法をお与えになりました。その内容は非常に厳しいものです。「義人はいない…」(10~18)がそれです。人間の罪を深く取り扱う言葉は、特にユダヤ人に対して語られています。その理由が「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため」です。1章の偶像礼拝の罪深さから始まり、パウロはずっと罪のことを扱っています。そして最後のところでユダヤ人に対して罪を暴露します。その目的は、すべての人間が罪人であることをはっきりさせるためでした。もしユダヤ人に律法が与えられ、神を恐れ、その教えを守ることができたら、永久にしあわせになるはずでした(申命記5:29)。しかし彼らは選ばれたことと律法を誇るばかりでした。律法を持っている彼らが他の異邦人たちよりも、何を知っているのかというと、「自分たちは罪人であって、神の恵みによるのでなければ、決して救われない」ということです。アブラハムやモーセらが全く罪深い者としてさばかれるのであれば、この世の人たちは自らを弁護するために何を言うことが出来るでしょう。ただ言葉を失うほかないのです。そうして全人類が、神のさばきに服すことになるのです。ユダヤ人たちに律法が与えられたことで強調すべきは罪深さなのです。イザヤは「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると…私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」(イザヤ64:1,6)と言いました。旧約の礼拝の制度も、民の罪を示すものでした。毎朝、夕方にもいけにえをささげなければなりません。羊の頭に手を置き、罪を告白してからその羊をほふります。律法が明らかになり、それに従うと何がわかるのかというと、その人の罪の深さがわかるのです。それは私たちを有罪にするさばきの訴状なのです。なぜ神はそのようなことをされるのでしょう?それは、罪深い者でしかないという人間の真実を示すためです。そしてイエスキリストだけが救いであるというところに導くためです。 「律法によっては、かえって罪の意識が生じる」というそのことは、私たちの毎日の生活の中で起こっていることです。毎日みことばを読んで、そこに心を傾け、尋ねてみてください。罪の意識はもっと深くなります。そうなれば、十字架でその罪の担われた贖いの恵みをもっと深く知ることとなります。