2022年1月30日 神の義

しかし、今は、律法とは別に、 しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 ローマ3:21 ローマ人への手紙3章21—22節 講解説教№16  神はユダヤ人に律法をお与えになったのは、彼らの罪深さを暴くためです。教えを守ろうとすればするほど罪意識が増すのです。神に近いと思われた彼らの罪が示されたのは、すべての人が有罪であり神のさばきに服するためです。「しかし、今は」と聖書は続きます。神であられるお方が人となられ、十字架で死なれ、三日目によみがえられ、昇天された今は!ということです。これは神の歴史の介入であり、救われる余地のない人間世界を変えた出来事です。律法を行うなら義と認められるのですが、それは罪意識が増すばかり。それとは別にキリストを信じることにより与えられる義について教えています。それは行い(律法の様々な制度)を要求しません。なぜなら、律法のすべての事はイエスキリストによって完全に成就されたからです。ところがユダヤ人クリスチャンの中にはキリストによる救いと律法を守ることの両方により救いが成立すると考えている人が少なくありませんでした。「律法とは別に」などいうものなら攻撃の的となりました。パウロは常に攻撃されていますが、他のユダヤ人クリスチャンはそれが嫌で妥協しました。それは邪悪な罪から救う福音の本質を損ねるので、パウロは正しい福音理解を教えることに徹しているのです。律法にある礼拝の犠牲制度は、イエスの十字架をあかししていました。聖所(主のご臨在場所)に入ることはゆるされず、いくら犠牲をささげても罪は残るのです。しかし、今私たちが自由に礼拝できているのはなぜでしょうか?赦され難い罪が赦されたからです。罪により神と何のかかわりもなくなった人間を救うために、神は一つの民族を選びました。罪人が決して守ることのできない律法を与えることで、罪を暴きました。その罪人を赦すためにご自分の御子であるイエスキリストを罰しました。私たちの罪はキリストに転嫁され、キリストの義が私たちに転嫁されたのです。これが福音の中心であり、イエスキリストを信じる信仰による神の義です。