2022年2月20日 説教テーマ 「なだめの供え物」

神は、キリストイエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです… ローマ3:25 ローマ人への手紙3章25—26節 №18 十字架において罪人のための代価として、イエスのいのちが支払われることが「贖い」であるのに対して、十字架において神の怒りを取り除くことが「なだめの供え物」です。罪に対する正しい怒りを満足させなければなりません。イエスの十字架を預言するイザヤ書にも「痛み、懲らしめ、打ち傷」などの苦しみを表す言葉が出て来ます。福音書に描かれている十字架の前の不当な裁判からはじまる拷問、むち打ち、十字架そのものが表す苦しみは、神の怒りの象徴です。マタイ27章45,46節には、イエスの十字架刑の最中に、全地が暗くなり、三時間も続きました。その後イエスが発した言葉は、「わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びです。神の怒りが明らかにされた場面です。神は、罪人が受けるべき神の怒りを、罪のない御子イエスにぶつけられたのです。決して赦されない私たちの罪を、なぜ赦すことができたのか?という最大の問題に、なだめの供え物という完全な問題解決を与えてくださったのです。ある人は「神が愛であるなら、どうして人を罰するのか」と尋ねます。しかしその人はキリストの贖いとなだめの供え物を正しく知りません。律法の教えの中に、民が気づかないで犯した罪のための供え物というのがあります。十字架上で「彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」との祈りは、まさにそのような供え物です。なだめの供え物の効果は、キリストの十字架以前の罪人たちに対しても有効です。聖書はそのことを「…今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られた」と言っています。アダムからキリストまでの旧約時代に回心した人の罪のことです。実際アブラハムは、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)のです。そこには神の忍耐があります。その根拠はなだめの供え物が未来においてささげられることが決定していたところにあります。これから支払われる代価に基づいて神は旧約の回心者をお救いになられたのです。今回の教えを通して、私たちは救いの確信を増し、神の怒りから免れた幸いを喜びたいのです。