2022年2月27日 説教テーマ 「取り除かれた誇り」

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 ローマ3:27 ローマ人への手紙3章27—31節 №19 人が救われるための良い知らせとしての福音が、ほんとうに良いものだとわかるには、救われなければならない人間の問題を知らなければなりません。ですからローマ人への手紙では、1-3章に至るまで罪について説明されていたのです。罪、神の怒りとさばき、贖い、なだめの供え物と、福音のことを説明した後で、イエスキリストの十字架によってのみ救われるということを説明していきます。その中で、罪人の「誇り」の問について扱っています。パウロが誇りを取り除くことを重要としているのは、罪人が自分の栄光を求めるという、罪人の性質に関係があります。神と交わるように造られた人間が、罪を犯したので、神の栄光に達しない者となりました。神との交わりが断絶された人間は、神ではなく自分自身を求めるようになりました。誇りはその自分の中にあります。ローマのユダヤ人クリスチャンたちは、まことの神を知っていることを誇ります(2:17)。ユダヤ人としてのしるしである割礼も誇りました。この誇りは異邦人との違いを生み出すもので、優越感と差別が生じます。自分よりも低く劣る人との違いから誇りが生じます。しかし、イエスキリストの十字架の赦しという救いの前には、この誇りは取り除かれるのです。もはや誇ることで或いは優越感を満たすことで生きることは出来なくなるのです。信仰の原理によって取り除かれました。信仰の原理とは、キリストの贖い、なだめの供え物としての十字架のことです。そこに映し出されるものは、愛で、いのちの犠牲、赦しです。私たちが受ける神の怒りをキリストが受けられたことで実現したものです。このキリストを信じる者に与えられるのは、神との交わりの回復です。キリストの十字架によってのみ人は救われると言うのが、パウロ(聖書)の結論です。この結論に至る説明を聞いても、異を唱えるユダヤ人クリスチャンはいたでしょう。だからパウロは、29,30節で説明を加えます。神が唯一であると堅く信じているユダヤ人に、そうであるなら、ユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあるはず。そこに違いを生み出して誇るのは矛盾していると認めさせようとしています。私たちも誇りにこだわっていないか確認し、信仰の原理に素直に生きるものでありたいです。