2022年3月13日 説教テーマ 「信仰の足跡に従って歩む」

また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父と なるためです。 ローマ4:12 ローマ人への手紙4章9—12節 №21 キリストの十字架の救いという、まったくの恵みを、パウロは聖書から論証しています。今度は「割礼」のことを取り上げます。割礼は契約のしるしとして神がお命じになっているものです(創世記17:10-14)。パウロが尋ねていることは、「義とされることは、割礼の状態にある時のことか、それとも割礼のない状態の時のことか」です。アブラハムが神から契約を受けたのが75歳のとき(創世記12:1-3)。それから10年ほど経過して、アブラハムが主を信じて、義と認められました(15:5,6)。さらに10年経過して、彼が99歳のときに、契約のしるしである割礼が与えられました(17:9-14)。およそ20年の隔たりがあるここに神の救いのご計画があり、救いにおける論理的な関係を見ることが出来ます。まず、救いの出発点は神です。「主はアブラムに仰せられた」と神がアブラハムを求め、契約を結ばれていることがわかります。彼が神を求めたのではありません。私たちに与えられた救いも同様です。次にその神の求め(契約)に対して、信仰によって応じています。その次に、信仰の証印として割礼というしるしを与えてくださっています。この論理から言えば、アブラハムが義と認められ、罪赦された幸いな者とされたのは、割礼のない状態のときです。聖書を見れば明白なのに、割礼を誇りたいユダヤ人にわからないのです。誇る自分を中心に聖書を見ると、正しい理解はいつまでもできません。神を中心に聖書を見るなら、罪を指摘されようと、聖書を聖書として正しく理解できるのです。割礼の意味は、義と認められたことの証印、それが割礼です。この証印は私たちのためのものではなく、神のための証印です。かつてノアが神と契約を結びました(創世記9:12-16)。それは神が契約の虹を見て、その契約を思い出し、今後洪水によって滅ぼさないためです。ですから今日に至るまで、世界が激しく神に逆らおうとも、神はその契約を守られています。割礼のしるしも、救いは、不敬虔な者がただキリストを信じる信仰によって救われることを、反逆する人間を前に、神が思い起こすためのものです。アブラハムは、この救いを知らせるための父です。