2022年3月20日 説教テーマ 「世界の相続人」

そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり… ローマ4:16 ローマ人への手紙4章13—16節 №22 パウロが3章から一貫して主張していることは、イエスキリストを信じる信仰による救いです(3:22、26、28、4:5)。信じる信仰ではなく、割礼という行いによる救いにこだわるユダヤ人にこれを話していますが、ユダヤ人に関することを話しているのではありません。人類の救いについて話しています。人々の救いは信仰によるのか、行いによるのか。救いは神によるのか、人間によるのか。世界に存在する諸宗教はすべて行いによる救いを説くものです。たとえば、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行くことができると説く浄土真宗は、信仰によるものと見えます。しかしそれを唱えさえすればという小さな行いがそこにあります。また、アーティストの歌詞を見ても、「がんばれ、あきらめない、できっこないことをやらなくちゃ!…」と自力を歌うものがほとんどです。自力で生きることが出来れば良いのでが、肉は生きていても霊は死んでいる人間にとって、生きていればなんとかなるということはないのです。行いによるのか、信仰によるのか、再びパウロは律法と信仰の対立として話します。「…律法によるものが相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり…」14 とは、律法による救いとなれば誰も相続人になれないと言っています。律法を完全に行うことが出来る人間が誰もいないからです。律法の要求は、神を愛しなさい、隣人を愛しなさい、この二つだけです。神が人間に求めておられるのはそれです。すべての人間はこの愛に完全に失敗し、愛に対して無力となりました。それなのに、「がんばれ、あきらめるな、できっこないことをやらなくちゃ!」と頑張るのです。人間には頑張らなければならないことと、頑張ってはいけないことをわきまえなければなりません。「世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵みによるため…」16 今犯した罪があったとしたら、それはどうしたら赦されるでしょうか。神に悔い改めながらも、犯した罪と同じくらいの痛みや苦しみを負えば赦されるでしょうか?休まず教会に行けば赦されるでしょうか?信仰…『私には何も出来ない、だから神により頼むほかない。神が与えてくださるものを受けるほかない。』 それが信仰です。より頼むお方が救いのための全てを行いました。行いは全部イエスキリストがしてくださったのです。私の行いはゼロです。ただ信じるだけです。