2022年3月27日 説教テーマ「望みえないときに望みを抱いて信じる」

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 ローマ4:21 ローマ人への手紙4章17—25節 №23 福音とは何かを知るために、アブラハムの信仰を知るようにと聖書は教えます。人が罪を犯して堕落して以来、神は救いのご計画を進めて来られました。そして神の民としての子孫を与える約束を、アダムとエバのセツに与えたのでも、ノアに与えたのでもなく、「あなたを大いなる国民と」する(創世記 12:2)とアブラハムに与えました。しかしいつまで待ってもその約束はかなえられません。そもそも、神は、子孫を与えると75歳のアブラハムになぜ約束されたのでしょう?もっと若い時にすればよいのに?と考えてしまいます。当時一般的であった代理の出産も、神は子孫とは認めず、自然の出産は既に絶望的、いわば死んだアブラハムとサラからいのちが誕生すると神が約束された、そこにしか道はないのです。人間にとって存在し得ない道ですが。彼は神に望みを置きました。もはや「死者を生かす」神を信じなければ何も始まりません。復活の信仰以外のいかなる信じ方も役に立たないのです。彼が信じた神はその神です。しかしはじめから信じたわけではありません。神も最初にアブラハムに約束をお与えになったときには、ご自身の死者を生かす力を信じることを要求されておられませんでした。むしろ、神はアブラハムが約束のものを受けるにふさわしい者に成長するまで待っておられたのです。親が子に耐えることのできないほどの祝福を与えてしまうなら、それは祝福ではありません。そのようにアブラハムが神の祝福を正しく受けることができるように、神は彼の歩みを通して成長を導かれたのです。アブラハムが、すべてが不可能であるという結論に達するところまで導かれました。アブラハムの特別な生涯は「私たちのためです」と聖書は言います。つまり私たちがアブラハムと同じ信仰でなければならないということです。「信仰がますます強くなって…」というアブラハムに強さを見てはいけません。子孫を残すことに彼は完全に無力なのですから。そうではなくて、彼は神の約束を堅く信じたのです。それは幼子にもできます。トマスが復活のイエスを、十字架の傷跡を見、触れなければ信じないと言って不信仰を責められたのは、イエスが散々十字架と復活を約束されたのに、その約束を信じなかったからです。神も奇蹟を信じろとは言わず、約束(契約)を信じることを要求されています。そして、その約束・祝福を受けるに相応しい者に成長するまで、神は待たれます。