2022年3月6日 説教テーマ「不敬虔な者を義と認めてくださる」

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 ローマ4:5 ローマ人への手紙4章1—8節 №20 救いは十字架のキリストを信じることによるのみ、ということを教えるために、パウロは、ユダヤ人にとって偉大な父アブラハムの話をしました。彼らはアブラハムが行いによって義と認められたと理解しています。しかし神の見方はそうではありません。聖書は確かに、アブラハムが信じる信仰によって義と認められたことを述べています。3 章の終わりで行いと信仰が対立する原理であることを説明し、もし行いによって救いを成し遂げたとなれば、功績の話になります。それを4節で「働く者の場合、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます」と言っています。行いであったら誇って良いことになります。しかし信仰は決して行いによることではありません。なぜなら、行いによって義と認められることはできないからです。しかし、何の働きのない者が、神を信じるなら、その信仰が義と見なされるのです。神が不敬虔な者を義と認めてくださるからです。聖書はアブラハムを誇るところのない不敬虔な者と見なしています。聖書を良く見なければなりません(創世記 15:1-6)。彼は老齢もあり、主の祝福を相続する子がいないにもかかわらず、神から報いを受ける、しかも子孫は無数の星の数ほどになると、神から約束を受けまし た。でも10年経っても子が与えられません。これは、何一つ行うことのできないアブラハムが神の約束を信じたという話です。途中女奴隷で子を設ける失敗をしましたが、それもただ神の恵みを強調するものでしかありません。大事なことは、人に何ができるかではなく、神に何ができるかなのです。アブラハムに何の働きもないことがわかりました。彼はただただ神にゆだねるほかありませんでした。そう、彼は神を信じたのです。神はアブラハムに起きた出来事で、後のアブラハムの子孫となる私たちに、救いって何?ということを教えておられるのです。