2022年4月10日 主の教会としての宣教の在り方

黙示録2:1-7 聖書の原文で1,2 節を見ると、「イエスキリスト」ということばから始まっています。それは救いが恵みであって、すべてキリストが私たちのために為してくださったものであることを強調する書き方です。キリストによって私たちは恵みの領域に「導き入れられ」ました。かつては神の怒りの刑罰として、人が望むままのところに「引き渡され」ました(1:24)サタンの領域です。そこから恵みの領域に導き入れられたのです。そこは「今私たちの立っているこの恵み」ですから現在です。現在立っている所は不完全なところです。そこから未来の栄光を熱心に期待して望むことを教えています。このとき、アブラハムのことを思い出すように聖書は記述されています(4章)。途方もなく待たされ、待望の子イサクが与えられるも、「あなたの子孫はこのようになる」との約束どおりの無数の民の姿を見ることはありませんでした。しかし彼はそれを承知していました。地上では休まることのできない「旅人であり寄留者であることを告白していた」(へブル11:13)とあるとおりです。自分の居場所がないということは、その人を不安定にします。だからこそ、本来の居場所である栄光の御国への望みがどれほど大事なことかは明らかです。なぜそれを望むことができるのか?それはアブラハムが、神の救いのご計画を知っていたからです(創世記12:2,3)。また彼は世界の歴史が、神の子孫とサタンの子孫の戦いであることも知っていました。その戦いの完全勝利が栄光の御国です。神の歴史はそうなると、細部はわからなくとも、おおよその流れと結論を確信していたのです。私たちも聖書の教えを断片的に知るのではなく、全体を知ることが求められます(使徒20:27)。私たちが望み見る神の栄光は、「堅い基礎の上に建てられた都」です。しかも神が設計し建てたものです(へブル11:9,10)。だから天幕生活(罪の現実世界での生活)を受け入れることができます。しかも喜んでいることが出来るのです。試練に直面すればするほど、望み待つことが出来るのです。