2022年4月24日  説教テーマ「患難さえも喜ぶ」

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます… ローマ5:3前半 ローマ人への手紙5章3、4節 №26 義と認められた人は、なぜ患難の中にいても喜ぶことが出来るのでしょうか。しかも聖書は、喜びましょうと勧めているのでも、喜ぶべきだとも言わず、「喜んでいます」と今ある状態を言っています。喜んでいないクリスチャンはいないというのが聖書の言わんとするところです。それは神との平和を持っているからです。それを持っているならば、悩み苦しみの中でも、喜びは充満し続けます。患難とはキリストを信じる信仰ゆえにぶつかる様々な問題のことです。その問題の根底に神との人格的な関係、神と人との正しい関係(神との平和)が流れています。患難に会うと、その神との関係を一段と深めることになります。患難の中で信仰者の成長を生み出すものとなります。神との揺るぎない関係を持っている最高の特権は、特別なことを知っているということです。3,4節に記されていることを「知っているから」(4)から喜ぶことが出来るのです。患難にぶつかるクリスチャンがみな成長するかと言ったら、そうではないと言わなければなりません。信仰者として聖書にある信仰の知識としてとらえなければ成長できないのです。「知っている」は「信頼している」とも言えます。つまりキリストに信頼する者にとってのみ、患難の中で成長するのです。パウロは最終的に知っているとする事柄を「希望」としています。コリント第二の手紙では「…私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知ってい」ますと。(Ⅱコリント 4:14)つまり、復活の希望です。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント 4:17)と、知っている事柄ゆえに、地上の悩み苦しみをパウロは軽い患難と表現しました。患難をどう考えるか、何を意味し、患難の先にある祝福が何なのか?よくよく考えましょう。「…彼は、神には人を死者の中からよみがえらせてくださることもできる、と考えました」(へブル11:19)途中のものを考えても意味がありません。永遠のもの、よみがえりである完全なものを考えましょう。