2022年5月22日 説教テーマ 聖書が語る死について

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。 ローマ5:12 ローマ人への手紙5章12節 №30 「御子の死による神との和解」(10)による救いの話から、罪と死についての話に転じています。別の話題に転じたのではなく、「ひとりの人(アダム)」と「ひとりのイエスキリスト」の意義と役割を明らかにして、キリストの救いの真実さを伝えています。まずアダムですが、彼によって罪が世界に入りました。アダムの罪の行為が全人類に報いをもたらしました。それはアダムのせいではなく、全人類が罪を犯したと聖書は主張しています。これを理解するためには、契約の概念が根底にあることを知らなければなりません。創世記から順に聖書を読んでいくと、神と人間との間には契約的な関係があります。新約聖書を見ると、「キリストによって」「キリストのうちに」という言い方が数多く出てきます。それらは契約関係を表す言い方です。神が世界を創造されたときに、園にいるアダムにおいて契約を立てられました。そのアダムが契約によって結ばれているグループ全員を代表することを意味しているのです。アダムはエデンの園で、全人類の代表として行動し、罪の行為も代表者としての行動だったのです。それで彼の罪によって全世界の人々は罪人となったのです。人は罪の性質を持ち、実際の行いにおいても自らの意思をもっての罪人なのです。さらにその罪により人に死が入りました。この死の成り立ちから、まずわかることは、死は自然の現象ではないということです。今の世の世界観だと、死は単なる物質的現象で、「死とは生物活動の終止」と一般の辞書にあるとおりです。ただ矛盾点もあり、自然に消滅する(亡くなる)のであれば、死に対して恐怖を感じる必要はないと思われますが、そうではないということです。聖書における死の意味は、神の怒りのあらわれです。人生全体が死に支配され、罪人は神の怒りのもとにあるのです。いわゆる人生の成功、失敗…この死の前にそれが何になるのでしょう?死ぬはずの者でなかったのに、確実に死ぬべき者になりました。その瞬間から神の救いを必要とする者になりました。キリストの血によって義と認められた私たちが神の怒りから救われる(10)ことが、どれほどあり得ないことであり、愛される理由などない者なのに、どれほど神に愛されたのか、死の意味から改めて知りましょう。