2022年5月8日 説教テーマ 「この希望は失望に終わらない」

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 ローマ5:5 ローマ人への手紙5章5―8節 №28 患難の中にいても喜んでいることができるのは、➀義と認められた人が神との平和を持っているから、②患難から生み出された最終的な希望が永遠の御国としての完全なものだから、とパウロは説明してきました。その説明の最後のところで、その喜びは「聖霊による」と一番深く基本的なところに立ち戻った説明をしました。そうすると、患難を通しての忍耐も品性も、そして希望も聖霊の働きによるのです。この希望は「失望に終わることがありません」という表現は、信仰者は途中必ず失望することを含んでいます。失望に終わらない、つまり最後は必ず希望で終わるのは、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。この神の愛は、まず歴史のイエスキリストの一回の出来事で、私たちの外側で起こりました。十字架の死の出来事です。「なだめの備え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ 4:10)神の愛のこの出来事は、「私たちがまだ弱かったとき」に起こりました。この弱さは生まれながらの罪の弱さであり、病み、衰え、誘惑に負け、特に神の戒めを守ることのできない無力さです。一言でいうなら、聖霊を受けていない絶望的な弱さです。この弱さの中で、イエスキリストは、救いを求める者のためにではなく、神を知りながら、神を神としない不敬虔な者のために死なれたのです。7節で述べていることは、人は相手次第でだれかのために死ぬ人がいるかもしれないということです。しかしイエスは愛されるに全く価しない者のためにこそ死なれました。この愛が実に弱い私たちの心に注がれているのです。「注がれている」とは程度のことではなく、その愛を感じるかどうかというものでもありません。その愛が自分を支え、助け、益にするだけのものではありません。神の愛が注ぎ込まれることによって弱い自分が、新しい自分となって誕生しているのです。その結果患難の中でも喜んでいるのです。そうして、永遠の御国としての完全な希望を味わい続けることが出来るのです。私たちは、この神の愛を人々に示すために存在しています。より神の愛を人々に示すためには、患難の中で喜んでいることです。そこにクリスチャンとしての魅力があふれています。