2022年6月12日 説教テーマ 「恵みに飲み込まれた罪」

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。 ローマ5:18 ローマ人への手紙5章18-21節 №32 ひとりの違反により、すべての人が罪に定められ、死刑宣告を受けました。同様に、ひとりの義の行為によって、すべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。「同様に」とは、代表者が行うことは、その人が代表している人たち全員の行為と見なすという部分を言っています。キリストの義の行為とは、広い意味ではキリストの全生涯、狭い意味では十字架の出来事のことであり、最大の痛みと苦しみと恥の中で、御父に従うことができるかどうかということを指しています。十字架刑の直前、イエスは「悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ 26:38)また、「苦しみもだえて…汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ 22:44)とイエスの祈りの様子が記されています。人としてのキリストが御父に対して従うことができるかどうかが試されているのです。「みこころならば、この杯を取りのけてください」(ルカ 22:42)との祈りは、御父を愛し、御父に愛されている関係を、神の怒りによって断ち切ってほしくないという願いです。 しかしイエスは、「みこころのとおりにしてください」と、最終的には「自分から」(Ⅰペテロ 2:24)十字架におかかりになるのです。アダムの完全なる不従順は極めて自己中心的なものです。自己中心とは、決して愛することのできない状態のことを言います。この不従順によって多くの人が罪人とされました。それと同様に、キリストの従順によって多くの人が義人とされたのです。最高の愛をもって関係を築かれていた父子が、父から見捨てられ、父の怒りを受けることに、死ぬほどの悲しみと苦しみを持ちながら、キリストは完全に従われたのです。主の従順による人々の救いのために、神は律法wおはいり込ませます。律法は神の意志を人間に教え、罪に抵抗させて義を求めさせるようにします。また、律法は人の罪を数え上げ、罪を宣告します。しかし律法は神の義に到達させる力を持ち得ず、ただ人の弱さと無力、不可能さを示します。そして律法は違反(罪)が増し加わるために入ってきました。実際に罪は増加しましたが、悪化ではありません。罪が罪だとわかり、神の救いの働き様があるのです。罪が増加したところに恵みも満ちあふれるという、恵みが罪を圧倒し、飲み込みます。キリストの従順が、罪の不従順を飲み込みます。