2022年6月19日 説教テーマ 「バプテスマの意味」

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 ローマ6:3 ローマ人への手紙6章1-4節 №33 「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」という聖書の真理に対して、「恵みが罪を飲み込むのであれば、罪の中にとどまり、罪を犯しても大丈夫なのでは」と罪を助長する人たちが出てくると、パウロは想定して「絶対にそんなことはありません」と答えていきます。罪に対して死んだ者が、罪の中に生きることができないというのが、その回答で、その説明として、「キリスト・イエスにつくバプテスマ」について述べています。イエスが私たちの罪のために死なれたという場合、私たちの代表者として死なれたのです。その理屈だと、イエスが私たちの罪に対して死なれたとき、私たちも死んだということになります。その罪とは、個々の罪の思いや行為ではなく、アダム以来、この世に死をもたらし、人間を神から遠く引き離す不和を引き起こした罪のことです。その罪に対してイエスは、ただ一度で解決されました。このことゆえに、キリストのうちにある者は罪に対して死んだ者であり、罪の支配と働きから決定的に自由にされたのです。ですから、救われたクリスチャンは罪の中に生き続けることはできないのです。それは「キリストにつくバプテスマを受けた」からです。これは、私たちが救われたときに、キリストの中に入れられた、或いはキリストの死と結合されたということです。キリストの死は私たちの罪を根幹から解決するものです。そのキリストの死と一つとされるバプテスマを受けたのだから、罪の中にとどまり続けることはあり得ないのです。キリストの死は「葬られた」とあるように、確実な死です。私たちもキリストとともに葬られました。確実な死があるからこそ、キリストのよみがえりがあります。キリストの死と一つとされた私たちも、主のいのちにあって新しい歩みをするのです。バプテスマの意味はそこにあり、教会で水に全身を浸して行うものは、その大切な意味を象徴的にあらわしているものです。また、受浸者がキリストを、その意味合いとして信じているその信仰を公に表明するものです。キリストとともに死に、葬られ、よみがえるという概念はくつがえされることのない真実です。その真実があるから、「新しい歩みを するため」と具体的な生活が行動として伴うのです。キリストにある私たちの立場は決して変わりませんが、見失いがちです。ですから、「あなたがたは知らないのですか」と繰り返し確認する必要があります。