2022年6月26日 説教テーマ 「罪に死に、主にあって生き」

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 ローマ6:11 講解説教 ローマ人への手紙6章5-11節 №34  聖書は信仰者がキリストとつぎ合わされたと表現します。幹のいのちと枝が結ばれて一つとなるように、信仰者はキリストの死と結ばれ、キリストの復活とも結ばれているのです。パウロはそれが信仰者に起こった事実であることを認識させるために、6節で「…私たちは知っています」と言います。古い人間がキリストとともに十字架につけられた結果、古い人間の罪のからだが滅びた、つまりからだに対して罪の効力がなくなったということを、体験的に、実践的に知っているのです。私たちは自分の家族のことを知識的に、情報として知っているのではなく、体験的に知っているのと同じように、自分に起こった救いを知っているとパウロは言うのです。9節においては、私たちの救いの根拠となっているキリストのよみがえり、つまり死がキリストを支配しないことも、「私たちは知っています」と言っています。キリストとともに新しく生きているから知っているということです。その根拠は、キリストがただ一度罪のために死なれたことであり、キリストが神の栄光のために、よみがえらされて生きているということです(10節)。パウロはさらに11節で「思いなさい」と、キリストに起こった死とよみがえりの事実が、私たちと切り離し得ないものであることを認識させようとしています。それは私たちが実際に、イエスとともによみがえらされることを認めることが求められています。具体的にどういうことか…それは、この地上ですべてが終わるのではないということを具体的に認めることです。私たちに与えられた永遠のいのちの具体的な活用の仕方が求められているのです。それは「いのちにあって新しい歩みをする」(4)ことの具体性です。もしその新しい歩みが、この地上での生活のことだったら、あまり新しくはないと思えてしまいます。それだと、永遠のいのちの価値が下がってしまいます。永遠のいのちの具体的活用は、キリストと永遠に交わる生活であり、地上の王国としては、千年の間、キリストとともに世界をさばくことです。救われた者は、もうすでに、その歩みを新しくされていますので、具体的な認識作業に励もうではありませんか。確かな福音の 上に立った信仰者として歩むためです。