2022年7月10日 説教テーマ 「新しい自由と服従」

ローマ諸教会の兄姉の具体的な問題として、「情欲」「汚れ」とあることから、異教社会に根付いていた性的罪が挙げられます。だからこそ、この手紙によって正しい福音による聖書教育が必要なのです。彼らが「恵みの下にある」から罪が力を失っているという立場をわかっていません。わかるどころか、恵みの下にあるのだから罪を犯しても大丈夫などという聖書的根拠のないことを信じてしまっています。罪に力がないなら、生活は必ず変えられていきます。「聖潔に進みなさい」と命じるのはそのためです。パウロは当時の奴隷制度を例に、奴隷が主人に従う場合、主人以外の者に従うことは決してできないと。その上で、彼らに対して、罪の奴隷か、従順(神)の奴隷かどちらかだと言います。罪を主人として選ぶなら、死を選び、従順を主人として選ぶなら、義を選ぶことになります。「どちらかだ」と言われれば、私たちは当然選ばなければなりません。しかし実際は私たちが選んでいるのではなく、神が罪の配下にあって苦しんでいる私たちを恵みによって、神ご自身が自由に選んでおられるのです。私たちが神を選んだと思われるのですが、そのことを「伝えられた教えの規準に心から服従し」と表現しています。これは福音に従ったということで、つまり福音を信じて救われた回心のことを言っています。そこは私たちが選ぶとか選ばないという領域ではないはずです。結局私たちは、罪から解放されて、義の奴隷となったのだから、「聖潔に進みなさい」なのです。私たちが聖くならなければならないのは、キリストにつくバプテスマを受けたことで、 聖くなる新しいプロセスが始まったからなのです。私たちは神に従って、間違いなく聖くなっていきます。ひたすら神に服従し、全く神に仕える神の奴隷だからです。神の奴隷に対して抵抗を感じますか?その人は罪の奴隷の行き着くところがどこかを確認してください。罪という主人が、奴隷に支払う賃金は死です。新しい主人である神に従っている私たちが受けるべきは報酬ではなく、永遠のいのちという賜物(プレゼント)です。神の奴隷となること、聖められていくこと(聖化)を願おうではありませんか。