2022年8月21日 説教テーマ「決して罪に定められない」

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 ローマ8:1 講解説教  №41 ローマ人への手紙8章1-4節 パウロの嘆きと同じように、私たちは救われてもなお罪に苦しんでいます。しかしパウロはキリストの救い、とりわけ、この死のからだが完全に購われる救いの完成を感謝しています。その希望と喜びが8章に展開されていきます。罪の弱さを知らない喜びではなく、それをはっきり意識したうえでの喜びです。その土台となっているのが、「キリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません」という約束です。罪に定められる、すなわち永遠の滅びが宣告されるかどうかは、その人がキリストにある(キリストの中にある)かどうかで決まります。キリストにある者は有罪宣告を免れます。私の代わりにキリストが有罪宣告を受けたからです。今罪の弱さにどんなに嘆いたとしても、もう罪に決して定められません。喜びの根拠は私たちの中にはなく、キリストにあります。そして私たちには新しい歩みが約束されています。御霊に従って歩む歩みです。これはいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から解放してくれたことで可能となった生活です。自分を支配している力が原理と考えて良いでしょう。地球に引っ張られる力が働いているから、地面に物が落ちるのと同じように、罪と死の原理の下にあると、その力に支配され、そこに引き付けられてしまうのです。しかし救われた今、罪に定められないのは、いのちの御霊の原理が働くからです。その力によって生きることができるのです。望まない悪を行ってしまう自己分裂は現在進行中ですから、論理的には矛盾しているのですが、信仰的には、罪に定められていないことを確信して、いのちの御霊の原理に歩み始めているのです。私たちの無力さのために、律法にはできなくなっていることを、神がキリストゆえにしてくださいました。罪は犯されませんが、この死 のからだと同じ姿を取られたイエスが、私たちに深く同情できるお方となってくださいました。それだけではなく、イエスは地上を歩まれた肉におけるご生涯において、その肉を処罰されました。その方法は十字架です。そのことによって律法の要求を満たされました。ですから、私たちは今、神を礼拝し、喜んで主の戒めに従って歩むことをしているのです。