2022年9月18日 説教テーマ 「弱き私の助け」

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 ローマ8:26 講解説教 ローマ人への手紙8章26-27節 №45  救いの完成に向けて、今の私たちは弱さの中でうめいています。その私たちを聖霊が助けてくださいます。ここで言う「弱い私たち」とは、どのように祈ってよいかわからない弱さのことです。ここで言う祈りとは、助けなどを求める、願うというものではありません。神を礼拝するという意味での祈るです。神の前に立ち、礼拝し、神の教えを聞き、神と共に生きる、そういう信仰生活全体が祈るという言葉に込められています。そして、この弱さは前節までに教えられた救いの完成を待ち望むことと関連しています。  私たちのからだが完全に贖われることは信仰生活の頂点です。今それは実現しておらず、信じて待っているところです。このことから信仰というものは希望に生きることだと言えます。その希望を取り除いてしまった信仰が、どう祈っていいかわからない状態です。目に見える現実に飲み込まれ、神の約束を見失い、真の礼拝から遠ざかってしまうのです。聖霊が助けてくださるというのは、この弱さの根本のところです。「助ける」の原文は「共に、代わって、取る」のことばが合わさって一つの言葉になっています。弱い私たちと共にいてくださり、私たちに代わって祈ってくださり、私たちの祈りを引き取り、父なる神に祈ってくださるのです。このとりなしは、双方の間に立って仲を取り持ち、両者が良い関係を築くために骨折ることです。そのとりなしの仕方として、御霊の思いを父なる神が良く知っておられることが教えられています。その父は人間の心を探り窮める方で、どう祈っていいかわからないという神との礼拝関係を築くことのできない根本的な弱さを見抜いておられるのです。その方が私たちの弱い心を見つめるときに、私たちの心に内住されている聖霊の思いを見つめてくださるのです。また聖霊は深いうめきによってとりなしてくださいます。そのうめきは、弱い私たちのうめきを聖霊が担うことで生じるうめきです。そこに交わりがあります。被造物のうめき(22)、私たち自身のうめき(23)それと同じようにして御霊も、交わりの中でともにうめきながらとりなしてくださるのです。この連帯感を意識したいものです。