2022年10月23日 説教テーマ「聖書の約束の確かさ」

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。 ローマ9:15 ローマ人への手紙 講解説教 №50 ローマ9章6-15節  パウロは神に選ばれた民の救いの問題を取り上げることで、聖書が語る救いの確かさがどこにあるのかを読者とともに確認しています。パウロは同胞に対する大きな悲しみを抱きながらも、彼の立っているところは「神のみことばが無効になったわけではない」というところです。神がイスラエルの民を選んだことが失敗に終わったとか、彼らの罪で効力を失ったのではないと述べています。つまり、救いというのは、あくまで神がお選びになるという恵みによるのです。人間の側の条件によらないのです。そのことをイスラエルの祖先、アブラハムとイサクの例で説明します。伝えたいことは、アブラハムの子孫という、いわゆる「血筋」のイスラエルの民がみな選ばれた民なのではないということです。アブラハムには、イシュマエル、イサクという息子がいます。前者は主が子を与えると言っても、高齢で、なかなか与えられずに、女奴隷を用いて設けた子です。そのあとにアブラハムとサラの間に、主が約束されていたイサクが生まれました。「約束のみことば」は「…(女奴隷がもうけた子ではなく)サラは男の子を産みます」なのです。そこに神の選びがあります。みことばの約束の確かさは、神がイサクをお選びになったという確かさです。もう一つの例、イサクの子である弟ヤコブと兄エサウの場合です。血筋においては同じ条件下で生まれた双子です。神の計画は、兄ではなく弟をお選びになりました。それは兄を選ばなかったのではなく、弟が信仰深かったということでもありません。「その子どもたちは…善も悪も行わないうちに」とはそのことです。神の選びが人間の何等の条件によるものではないこと、神の選びの計画の確かさが明らかにされるためのものです。私たちが救われたのは、ただ神がお選びになったことによります。私たちに救いを受けるにふさわしい何かがあるわけではありません。今なお罪を犯し続けるふさわしくない者であるにもかかわらず、神は私たちをお選びになりました。その動機はあわれみといつくしみです。選ばれるにふさわしくない、つまり滅んで当然の者だからこそ、神にあわれんでいただくしかないのです。そこにしか救いの確かさはありません。それを約束してくださっているみことばこそ確かなものです。その約束にある神の選びこそ確かなものです。その確かさを信じていますか。