2022年10月2日 説教テーマ「神が味方であるなら」

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 ローマ8:31 講解説教 №47 ローマ8章31-32節  8章が第一部の締めくくりです。つまり福音とはどういうものか?について、「これらのことからどう言えるでしょう」と、福音とはこういうものです!と結論づけています。福音とは、神が味方であるということです。誰も敵対することのできない神が私の味方であることを確信することです。災いや誘惑がないわけではない、死の恐怖もなくなったというのでもない、現にそれらを経験している私たちです。しかし神が私の味方です。 「これがなければ、どんな幸福の中にあっても私たちに確かな支えはないが、これがあれば、どんな苦しみ悲しみ逆境の中にあっても私たちは支えられる」とカルヴァンは言いました。私の願いをかなえてくれないことが、神は味方ではないとは言えないようです。何をもって神は味方と言えるのか…神は私たちの願いや思いを超えた仕方で救いを与えてくださいます。ですから、私たちは自分の願いに対する手助けを神に求めません。神が私のために何をしてくださるのかを見つめましょう。それは32節につながっています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された…」「ために」と「味方である」と訳されている言葉は、原語で同じ言葉が使われています。神が私のためにしてくださったこと、御子を死に渡されたこと、つまり神が私の味方であることは、イエスキリストの十字架の死においてこそ見つめられるべきなのです。神が私の味方であることの度合いは、惜しまず死に渡されたほどです。神はアブラハムの忠誠を試すために息子イサクをささげることを命じました。彼はひとり子に対して大いに心を痛めながらも「惜しまないで」神にささげたことが記されています(創世記22:12)。旧約のこの出来事の真の意味は、神のひとり子イエスの十字架の死によってこそ示されます。神がアブラハムと同じ立場に身を置かれました。アブラハムは神によって息子をささげることをとどめられましたが、神は誰からも命じられているわけではなく、全くの自由のもとに、ひとり子をささげられたのです。それは御子といっしょにすべてのもの、すなわち、神の王国をお与えになるためです。疑いなく神は私の味方です。